しこ》のあいだにゆくことになった。
三月三日! 汽船はぶじオークランド湾についた。かえりみれば一昨年二月十四日の夜、ここを流れでてから満二ヵ年あまりになった。
「サクラ号の少年たちがぶじ帰国したぞッ」
この声がニュージーランドのすみからすみにつたわった。少年たちの父母は死んだ子が再生したとばかり、取るものも取りあえずはせあつまっては、抱きしめだきしめ接吻《せっぷん》の雨を降らした。
新聞社は特大の活字もて、このめずらしき冒険《ぼうけん》少年の記事をかかげた号外を発行した。ニュージーランドの市街《しがい》は、少年連盟のために熱狂した。
富士男は毎日毎夜、諸学校、諸倶楽部《しょクラブ》等の依頼に応《おう》じて、遭難《そうなん》てんまつの講演にいそがしかった。その会場はいつも満員で、市民はせめてその顔なりと一目見ようと、門外にたたずむもの何千人をもってかぞえられた。富士男が克明《こくめい》にしるした遭難日記が出版された。それは見る見る売り切れとなって、全国の少年はこの日記を読まないことを恥とした。日記は仏《ふつ》、独《どく》、英《えい》、日《にち》、の各国語に訳《やく》された。
オークランドの市民は、イバンスのために義捐金《ぎえんきん》を集めて一せきのりっぱな商船を買い、これにチェイアマン号と名をつけておくった。
ケートは富士男、ガーネット、イルコックらの父母から、しきりに永久客分として招聘《しょうへい》せられたが、かの女はいずれにも応《おう》じなかった。そこで十五少年の父母は醵金《きょきん》をしてケートのために閑雅《かんが》な幼稚園を建て、その園長に推薦《すいせん》した。
まもなく市民は大会を開いて、十五少年|推奨《すいしょう》の盛宴《せいえん》を張った。そのとき市長ウィルソン氏の演説大要は左のごとくであった。
「いま十五少年諸君の行動を検《けん》するに、難《なん》に処《しょ》して屈《くっ》せず、事に臨《のぞ》んであわてず、われわれおとなといえども及びがたきものがすこぶる多い。そもそも富士男君の寛仁大度《かんじんたいど》、ゴルドン君の慎重熟慮《しんちょうじゅくりょ》、ドノバン君の勇邁不屈《ゆうまいふくつ》、その他諸君の沈毅《ちんき》にして明知《めいち》なる、じつに前代未聞《ぜんだいみもん》の俊髦《しゅんぼう》であります。とくに歓喜《かんき》にたえざるは、十五少年諸君が心を一にして一糸みだれず、すべて連盟の規約《きやく》を遵守《じゅんしゅ》したる一点であります。日英米仏伊印独支《にちえいべいふついいんどくし》、八ヵ国の少年は、おのおのその国を異《こと》にし、人種を異にしておりますが、その共同精神、すなわち国籍や人種を超越《ちょうえつ》した、世界人類という大きな気持ちの上に一致したということは、やがてわれわれおとなどもが、国際的の小さな感情をすてて、全世界の幸福のために一|致共同《ちきょうどう》しうべきことを、われわれに教えたものであります。われわれが実行せんとしてあたわざりしものを、十五少年諸君がまず実行された、これじつにおどろくべきことではありませんか。共同一致の力は、二年間の風雨と戦って、全勝を占《し》めました。われわれは少年諸君にあたえられた、この教訓を閑却《かんきゃく》してはなりません、わたくしはいま世界平和の天使として、少年連盟を礼賛《らいさん》したいと思います」
……………………………………………………………………
付記 名犬フハンは、いたるところ市民のごちそうを受け、そのために一時は腸《ちょう》をわずらいしが、ほどなく全快、いまは数十頭の子を生んで、しごく強健《きょうけん》に暮らしている。
底本:「少年連盟」少年倶楽部文庫、講談社
1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
初出:「少年倶楽部」
1931(昭和6)年8月号〜1932(昭和7)年6月号
入力:゛゜゛゜
校正:土屋隆
2008年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全26ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング