親族から招待をうけて、南米漫遊を思いたった。せっかちの夫妻は、足もとから鳥がたつようにいそいで旅装《りょそう》をととのえ、ケートをしたがえてサンフランシスコへきた。だが定期船は出帆《しゅっぱん》したあとだった。たまたま貨物船セルベン号がチリーのバルパライソにむかって航海するうわさを耳にした夫妻は、手をうって喜んだ、さっそくケートが走って船長に便船《びんせん》かたをたのんだ。それはすぐにゆるされた。
セルベン号は、船長とふたりの運転手と、八人の水夫からなる、旧式の船だった。船はその晩サンフランシスコを抜錨《ばつびょう》した。
水また水の無為《むい》な海上生活が、十日ばかりつづいた。それは月のない晩であった。
水夫等は甲板《かんぱん》にあつまって酒宴《しゅえん》をひらいた。片目で右眼が二倍の働きをするようにギロギロ光る水夫長のワルストンが、酒によっぱらって日ごろの不平をならべたてた。かれは海蛇《うみへび》のあだ名があった。それは右手のくるぶしに、海蛇《うみへび》の入《い》れ墨《ずみ》をしているからである。
「ね、おい、水夫だってうまいもん食いてえや、船長たちゃ、いつもビフステーキやチキンの煮ころばしを食いやがって、ちくしょう!」
「おれたちにゃくさったキャベツと、ぶたのしっぽとくらあ!」
とひたいに刀きずの水夫がいった。
「まっかなトマトが食いてえ!」
とひとりがいう。
「フカフカのパンが食いてえ!」
とひとりがいった。
「上等のブランデーが飲みてえ、あいつらは、たらふく飲んでやがる」
と右の拇指《おやゆび》のない水夫がいった。かれは喧嘩《けんか》が自慢で、もし喧嘩に負けたら、指を一本ずつきりおとすんだと広言した。ところがある日、海蛇《うみへび》と大げんかをやって負けた。かれはみなの前で拇指《おやゆび》を落とした。以来かれは四本指の兄貴とあだ名された。
「おれが談判してやろう」
と海蛇《うみへび》がフラフラとたちあがった。
「うまくやってくれよ親分」
と四本指がニヤリと笑ってたちあがった。
海蛇を先頭に水夫らは、船長室をおそった。
船長は一言のもとにはねつけた。これはかれらが望むところであった。サンフランシスコを出帆《しゅっぱん》してからかれらは、密々《みつみつ》悪い計画をこらした。それはこの船を占領《せんりょう》して、南アメリカおよびアフリカ諸国に往来して、いまだに秘密に行なわれている奴隷《どれい》売買をいとなんで、一|攫《かく》千金をえようとしたのだ。いまその喧嘩《けんか》の口実《こうじつ》ができた。
「どうしてもきかねえのか」
と海蛇が、酒でにごった眼をギラギラと光らした。
「あたりまえだ」
と船長があおくなっていった。
「おれたちにうまいものを食わせろ」
とひとりがさけんだ。
「うるさい! でてゆけ!」
と船長がさけんだ。
「どうしてもか?」
「親分めんどうくせえ、やっつけろよ」
と四本指がそそのかした。
「よし」
と海蛇がポケットをさぐって、ピストルを出すと、船長をめがけて一発をはなった。
「アッ」と悲鳴《ひめい》とともに、船長があけにそまって倒れた。
「野郎《やろう》ども! ぬかりなくやれよ」
と海蛇がどなった。血を見て凶暴《きょうぼう》になったかれらは、かねての計画を実行に移《うつ》した、まもなくベン夫妻と、一等運転手がたおされた。悪漢《あっかん》どもは完全にセルベン号を占領《せんりょう》した。
ケートはあやうくのがれて、運転手室にかけこんだ、そこにはスペイン人のイバンスが、当直《とうちょく》の勤務をしていた、かれは三十前後の温良な人物である。
「助けて!」
「どうしたんです」
とイバンスがびっくりしていった。
「船長さんが、ご主人夫妻が……殺されたのです」
こういったとき、どやどやと悪漢どもが、足音あらくふみこんだ。海蛇を先頭に七人が目をギラギラ光らして、ピストルと刀を持って威嚇《いかく》した。
「殺すのか」
とイバンスが、ケートをかばった。
「いや、運転手さん。おまえは助けてあげるよ、だが、おれたちの命令にそむきゃ、ようしゃはしねえ」
と海蛇がいった。じっさいいまイバンスを殺しては、船の運転がとまってしまう。
「親分、あの女はどうしよう」
と四本指がいった。
「ついでに助けてやれ」
かくてイバンスとケートは、運転手室にとじこめられて、厳重な監視《かんし》をうけた。不安のうちに三日すぎた。と、どうしたことか四日目の晩、船はにわかに火を発して見る見る火焔《かえん》につつまれてしまった。
悪漢どもはあわてふためいて、伝馬船《てんません》をおろした。若干《じゃっかん》の食物と数丁の武器と弾薬がかろうじてとりだすことができた。
「まぬけめ! おちついてやれ」
と海蛇がど
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