くらをすてるんですか」
「先生を追いだすやつがあるんですか」
 小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは若き純粋な血と涙が一度に潰裂《かいれつ》した至情の洪水《こうずい》であった。
「諸君?[#「?」はママ]」
 小原捕手《こはらキャッチャ》は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。
「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ」
「そうだ、無論だ」
 講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。
「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」
 だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体《てい》を見ていた。自分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずにはいられなかった。
「先生!」
 小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎《ほのお》がひらめいた、広い肩と太い首が波の如《ごと》くふるえている。
「先生!」
 かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなった。
「校長先生!」
 こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕《かいな》を目にあててしまった。講堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこここからなき声が起こった、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかくした、朝井先生は扉《ドア》をあけて外へでた、他の先生達は右に傾き左に傾いて涙をかくした。
 校長はしずかに講壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。
「諸君! 不肖《ふしょう》久保井克巳《くぼいかつみ》が当校に奉職してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実とによって幸いに大瑕《たいか》なく校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命により本校を去り諸君とわかれることになったことは実に遺憾《いかん》とするところでありますが事情まことにやむを得ません。おもうに離合集散《りごうしゅうさん》は人生のつね、あえて悲しむに足らざることであります、ただ、諸君にして私を思う心あるなら、その美しき友情をつぎにきたるべき校長にささげてくれたまえ、諸君の一言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわれるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢《ごうきかかん》なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざればそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知っている、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水《うんざんえんすい》相《あい》隔《へだ》つれども一片の至情ここに相許せば、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめてくれたまえ、私も諸君を思えばこそこの地を去るのだ……」
 声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、次第に興奮して飛沫《しぶき》がさっと岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同は大鳥の翼《つばさ》にだきこまれた雛鳥《ひなどり》のごとく鳴りをしずめた。
「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志は全然|葬《ほうむ》られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世界のことに指を染《そ》めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正しきを踏《ふ》んでおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈《いの》ろう、諸君もまたいままでどおりにりっぱに勉強したまえ」
 小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人《なんぴと》もいうものがない、校長がいかにも悲しげに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふたたびなきだした。
 後列の方から扉口《とぐち》へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講堂をでた。
「だめかなア」
 光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音は次第に近づいた、そうして光一を通りすごした。
「青木君」かれは呼びとめた。
「ああ柳さん」
「どこへゆく?」
 光一はチビ公が豆腐おけもかつがないのをふしぎに思った。
「ぼくのおじさんを見ませんか」と千三はうろうろしていった。
「いや、見ない」
「ああそうですか、今朝《けさ》から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったのではないかと思ってね」
 千三はなきだしそうな顔をしていた。
「心配だろうね、ぼくも一緒《いっしょ》にさがしてあげよう」

         五

 チビ公と光一は裏門通りから清水屋横町へでた。そこでチビ公は知り合いの八百屋《やおや》にきいた。
「家の伯父さんを見ませんか」
「ああ見たよ」と八百屋がいった。
「さっきね丸太《まるた》ん棒《ぼう》のようなものを持ってね、ここを通ったから声をかけるとね、おれは大どろぼうを打ち殺しにゆくんだといってたっけ」
「どこへいったでしょう」
「さあ、停車場の方へいったようだ」
「酔ってましたか」
「ちとばかし酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもしれないよ」
「ありがとう」
 チビ公はもう胸が一ぱいになった、ようやく監獄《かんごく》からでてきたものがまたしても阪井に手荒なことをしては伯父さんの身体《からだ》はここにほろぶるよりほかはない、どんなにしても伯父さんをさがしだし家へつれて帰らねばならぬ。
 ふたりは足を早めた。停車場へゆくと伯父さんの姿が見えない、チビ公は巡査にきいた。
「ああきたよ」
「何分ばかり前ですか」
「さあ三十分ばかり前かね」
「どっちの方へゆきましたか」
「さあ」と巡査は首をかしげて、「常盤町通《ときわちょうどお》りをまっすぐにいったように思うが……」
 ふたりは大通りへ道を取った。
「どうしてこういやなことばかりあるんだろうね」と光一はいった。
「ぼくが思うに、この世の中にひとり悪いやつがあると世の中全体が悪くなるんです」とチビ公はいった。
「だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを撃退する力があるべきはずだ」
「それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の学校の校長さんより阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません」
「そんなことはない」と光一は顔をまっかにして叫んだ。「もしこの世に正義がなかったらぼくらは一日だって生きていられないのだ、ぼくは悪いやつと戦わなきゃならない、この世の悪漢をことごとく撃退して正義の国にしようと思えばこそぼくらは学問をするんじゃないか」
「それはそうだが、しかし強いやつにはかないません、正義正義といったところで、ぼくの伯父は監獄《かんごく》へやられる、阪井は助役でいばってる、それはどうともならないじゃありませんか」
 ふたりは警察署の前へきた、いましも七、八人の人々がひとりの男を引き立てて門内へはいるところであった。チビ公は電気に感じたようにおどりあがって人々の後を追うた。とまたすぐもどってきた。
「伯父さんかと思ったらそうでなかった」
 かれは安心したもののごとく眼を輝かした、そうしてこういった。
「喧嘩して人をきったんですって、それはいいことではないが、ぼくはああいう人を見ると、なんだか、その人の方が正しいような気がしてなりません、時によるとぼくもね、ぼくがもし身体《からだ》がこんなにチビでなかったら、もう少し腕に力があったら、悪いやつを片っ端から斬《き》ってやりたいと思うことがあります、身体が小さくて貧乏で、弱い母親とふたりで伯父さんの厄介《やっかい》になっているんでは、いいたいことがあってもいえない、いっそぼくの頭がガムシャラで乱暴で阪井のように善と悪との差別がないならぼくはもう少し幸福かもしらないけれども、学校で先生に教わったことをわすれないし、道にはずれたことをしたくないために、人に踏《ふ》まれてもけられてもがまんする気になります、そんなことでは損です、世の中に生きていられません、そう思いながらやはり悪いことはしたくないしね」
 チビ公は涙ぐんで歎息した、光一はなにもいうことができなくなった。かれはいままで正義はかならず邪悪に勝つものと信じていた。それが今日《きょう》もっとも尊敬する久保井校長が阪井のためにおいはらわれたのを見て、正義に対する疑惑が青天に群がる白雲のごとくわきだしたところであった。かれはいまチビ公の嗟歎《さたん》を聞き、覚平の薄幸《はっこう》を思うとこの世ははたしてそんなにけがらわしきものであるかと考えずにいられなかった。
 ふたりはだまって歩きつづけた。と米屋の横合いから突然声をかけたものがある。
「柳君!」
 それは手塚であった。このごろ手塚は裏切り者として何人《なんぴと》にもきらわれた、でかれは光一にもたれるより策《さく》がなかった。かれはなにかさぐるように狡猾《こうかつ》な目を光一に向けて微笑した。
「ぼくはすてきにおもしろい小説を買ったからきみに見せようと思ってね……いまは持っていないけれども晩に届けるよ。『春の悩み』というんだ」
「ぼくは小説はきらいだ」と光一はいった。
「ああそうか」と手塚はべつに恥じもせず、「それじゃ『世界の怪奇』てやつを君に見せよう、胴体が百五十|間《けん》もあるいかだの、鼻に輪をとおした蕃人だの、着色写真が百枚もあるよ、あれを持ってゆこう」
 かれは軽快にこういってからつぎにさげすむような口調でチビ公にいった。
「どうだチビ公、その後は……商売をやってるの?」
「毎日やっています」とチビ公はいった。
「たまにはぼくの家へもよりたまえね、豆腐《とうふ》を買ってあげるからね、チビ公」
「チビ公というのは失敬じゃないか、ぼくらの学友だよ」と光一はむっとしていった。
「そうだ、やあ失敬、堪忍《かんにん》堪忍《かんにん》」
 手塚は流暢《りゅうちょう》にあやまった。がすぐ思いだしたようにいった。
「きみの伯父さんがいまあそこであばれていたよ」
「どこで?」とチビ公は顔色をかえた。
「税務署で」
「税務署?」
「よっぱらってるから役場と税務署とを間違えて飛びこんだのだよ、阪井を出せ、どろぼうをだせってどなっていたよ」
「ありがとう」
 チビ公は奔馬《ほんば》のごとく走りだした。光一も走りだした。
 少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。
 これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。
 政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲《こう》の政党と乙《おつ》の政党とはその主義を異《こと》にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非
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