常に多い。これが日本の今日の政界である。
阪井猛太は自党の多数をたのみにして助役の地位にあるのを幸いに、不正工事を起こして自党の利益にしようとした、これに対する立憲党は町会において断々固《だんだんこ》としてその不正を責めたてた。もしことやぶるれば町長の不名誉、助役の涜職《とくしょく》、そうして同志会の潰裂《かいれつ》になる。猛太はいま浮沈《ふちん》の境に立っている。
巌《いわお》はまだ学生の身である。政治のことはわからないが、かれは絶対に父を信じていた。かれは町へ出るとあちらこちらで不正工事のうわさを聞くのであった、だがかれははらのうちでせせらわらっていた。
「ばかなやつらだ、あいつらにぼくの親父の値《ね》うちがわかるもんか」
かれは何人《なんぴと》よりも父が好きであった、父は雄弁家で博識で法律に明るくて腕力があって、町の人々におそれられている、父はいつも口をきわめて当代の知名の政治家、大臣、政党首領などを罵倒《ばとう》する、文部大臣のごときも父は自分の親友のごとくにいいなす、それを見て巌はますます父はえらいと思った。
その日かれは理髪床《かみどこ》でふたりの客が話しているのをきいた。
「さすがの猛太も今日《きょう》こそは往生したらしいぜ、町長にひどくしかられたそうだよ」とひとりがいった。
「町長だってどうやら臭《くさ》いものだ」とひとりがいう。
「いや町長はなかなかいい人だ」
ふたりの話を聞きながら巌はまたしてもはらのうちで冷笑した。
「町長なんて、それはおれの親父《おやじ》にふりまわされてるでくのぼうだってことを知らないんだ」
かれはこう思うて家へ帰った、父はすでに帰っていた、だまってにがりきった顔をして座っていたので巌はつぎの室《へや》へひっこんだ、機嫌の悪いときに近づくとげんこつが飛んでくるおそれがあるからである、父は短気だからげんこつが非常に早い。
「おい巌」と猛太は呼《よ》んだ。
「はい」
「きさま、どこへいってきた」
「床屋《とこや》へゆきました」
「なにしにいった」
「頭を刈りに」
「ばかッ、頭を刈ったってきさまの頭がよくなるかッ」
「お母さんがゆけといったから」
「お母さんもばかだ、頭はいくらだ」
「二十銭です」
「二十銭で頭を刈りやがって、学校を退校されやがって」
巌はだまった、二十銭の頭と自分の退校といかなる関係があるかと考えてみたがかれにはわからなかった。こういうときに家にいるとろくなことがないと思ったのでかれはそっと外へでた。町を一巡してふたたび帰ると父の室《へや》に来客があった。それは役場の庶務課長の土井という老人であった、この老人は非常に好人物という評判《ひょうばん》も高いが、非常によくばりだという評判も高い、つまり好人物であってよくばりなのである。
母はどこへいったか姿が見えない、父と土井老人は酒を飲みながら話はよほど佳境に入ったらしい。
「心配するなよ、なんでもないさ、そんな小さな量見では天下が取れないぜ」
父の声は快活豪放であった。
「でも……そのね、町会があんなにさわぎ出すと、どうしてもね……」
「もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はッはッはッ」
わらいがでるようでは父はよほど酔《よ》っていると巌は思った。
「しかし、いよいよ明日《あす》ごろ……多分明日ごろ、検事が……あるいは検事が調べにくるかもしれんので……」
「なにをいうか、検事がきたところでなんだ、証拠《しょうこ》があるかッ」
「帳簿はその……」
「焼いてしまえ」
老人は「あっ」と声をあげたきりだまってしまった。
「はッはッはッ」と猛太はわらった。が巌の足音を聞いてすぐどなった。
「だれだッ」
「ぼくです」
「巌か、何遍《なんべん》床屋《とこや》へゆくんだ、いくら頭をかっても利口にならんぞ」
巌はだまって自分の室にはいり机に向かって本を読みはじめた、かれは本を読むと眠くなるのがくせである、いく時間机にもたれて眠ったかわからないが、がらがらと戸をあける音に眼をさますと、客はすでに去り、母も床についたらしい。
「なんだろう」
こう思ったときかれは父が外へでる姿を見た。
「どこへゆくんだろう」
俄然《がぜん》としてかれの頭に浮かんだのは、チビ公の伯父覚平が父猛太をうかがって復讐《ふくしゅう》せんとしていることである、今日《きょう》も役場をまちがって税務署へ闖入《ちんにゅう》したところをチビ公がきてつれていったそうだ、へびのごとく執念深《しゅうねんぶか》いやつだから、いつどんなところから飛びだして暴行を加えるかもしれない。
「父を保護しなきゃならん」
巌は立ちあがった、かれは細身の刀をしこんだ黒塗りのステッキ(父が昔愛用したもの)を小脇にかかえて父のあとをつけた。二十日《はつか》あまりの月がねぼけたように町の片側をうすねずみ色に明るくしていた。父の足元は巌が予想したほどみだれてはいなかった、かれは町の暗い方の側を急ぎ足で歩いた。
「どこへゆくんだろう」
巌はこう思いながら父と二十歩ばかりの間隔を取ってさとられぬように軒下《のきした》に沿《そ》うていった。父はそれとも知らずにまっすぐに本通りへ出て左へ曲がった。
「役場へゆくんだ」
この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に一朶《いちだ》の疑雲《ぎうん》がただようた。とかれはさらにおどろくべきものを見た、父は役場の入り口から入らずにしばらく窓の下にたたずんでいたがやがて軽々と窓わくによじのぼった、手をガラス窓にかけたかと思うと、ガラスがかすかに反射の光と共に動いた。父の姿はもう見えない。
「どうしたことだろう」
巌はあっけに取られたがすぐこう思いかえした。
「なにかわすれものをしたのだろう」
だがこのときかれはぱっと一閃《いっせん》の火光が窓のガラスに映《うつ》ったような気がした、そうしてそれがすぐ消えた。
「なぜ電灯をつけないんだろう」
ふたたび火光がぱっとひらめいた。ゆがんだような反射がガラスをきらきらさせた、それはろうそくの光でもなければガスの光でもない、穂末《ほずえ》の煙が黒みと白みと混合して牛乳色に天井《てんじょう》に立ちのぼった。
巌はわれをわすれて窓によじのぼり、奔馬《ほんば》のごとくろうかへ降りた。窓から南風がさっとふきこんだ、炎々《えんえん》たる火光と黒煙のあいだに父は非常な迅速《じんそく》さをもって帳簿箱に油を注いでいる、石油の臭《にお》いは窒息《ちっそく》するばかりにはげしく鼻をつく、そうしてすさまじい勢いをもって煙を一ぱいにみなぎらす、焔《ほのお》の舌は見る見る床板をなめ、テーブルをなめ、壁を伝うて天井を這《は》わんとしつつある。
巌はいきなり、そこにある机かけをとって床の上の火炎をたたきだした。
「だれだ」と父は忍び声にどなった。
「ぼくですお父さん」
「おまえか……なにをする」
「消しましょう」
「あぶない、早く逃げろ」
「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。
「危《あぶ》ない、早く早く、逃げろ」
ぱちぱちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの下をくぐって噴水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは昼のごとく反射した。
「もうだめだ、早く早く、下を這《は》え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這《は》って逃げろ」
「消しましょう」
と巌は三度いった。
「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」
「死んでもかまいません、消しましょう、お父《とう》さん」
「ばかッ、こい」
父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。
「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」
「なにを?」
父は手を放してよろよろとしざった。
「消してください、お父さん」
巌は炎《ほのお》の中へ飛びこんだ、かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、それから壁やたなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりさえぎりたたきのめし、ふみしだき、阿修羅王《あしゅらおう》が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかしゆくがごとくあばれまわった。だがそれは無駄であった。油と木材の燃ゆる悪臭と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。
「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。
「巌! どこだ、巌!」
父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。
「消して……消して……お父さん」
ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団《ふとん》などが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音が聞こえた。
「巌! 巌!」
父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
やっぱり答えがない。
猛太は仰天《ぎょうてん》した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床《ゆか》一面にひろがった、右を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井《てんじょう》には火竜の舌が輝きだした。
「巌!」
猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪《きょうあく》な三百代言でもなければ、不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。
かれは煙に巻かれて窒息《ちっそく》している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは爛々《らんらん》たる炎《ほのお》の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓《こうげい》がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然《かくぜん》とひとりの男の顔があらわれた。
「やあ覚平!」
かれはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は早くもかれの胴体をかかえた。
「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。
「きさまはおれを殺しにきたのか」
「助けにきたんだ」
覚平は猛太と巌を左右にかかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。
当直の人々や近所の人々によって火は消されたが、室内の什器《じゅうき》はほとんど用をなさなかった。重要な書類はことごとく消失した。
人々は窓の外に倒れている猛太父子を病院に送った。覚平は人々とともに消火につとめた、さわぎのうちに夜がほのぼのと明けた。
町は鼎《かなえ》のわくがごとく流言蜚語《りゅうげんひご》が起こった。不正工事の問題が起こりつつあり、大疑獄《だいぎごく》がここに開かれんとする矢先《やさき》に役場に放火をしたものがあるということは何人《なんぴと》といえども疑わずにいられない。甲《こう》はこういう。
「これは同志会すなわち役場派の者が証拠《しょうこ》を堙滅《いんめつ》させるために放火したのである」
乙《おつ》はこういう。
「役場反対派すなわち立憲党のやつらが役場を疑わせるために故意に放火したのだ」
色眼鏡をもってみるといずれも道理のように思える。だが多数の人はこういった。
「猛太父子が一命を投げだして消火につとめた処《ところ》をもってみると、役場派が放火したのではなかろう」
こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口をきわめて称讃した、それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。
半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌はなんにも知らなかった。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も繃帯《ほうたい》されているのに気がついた。
「目がさめて?」
母の声が枕元《まくらもと》に聞こえた、同時にやさしい母の目がはっきりと見えた、母の顔はあおざめていた。
「お父《とう》さんは?」と巌がきいた。
「そこにやすんでいらっしゃいます」
巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、ちょうど並《なら》んだ隣の寝台に父は繃帯した片手を胸にあてて眠っている、ひげもびんも焼けちぢれてところどころ黒ずんでいるほおは繃帯のあいだからもれて見える。
「お父さんはどんなですか」
「大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ」
「それはよか
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