んとうばこ》をふりあげた。光一はあっと声をあげて目の上に手をあてた、眉と指とのあいだから血がたらたらと流れた。血を見た阪井はますます狂暴になっていすを両手につかんだ。
「よせよ、よせ、よせ」人々は総立ちになって阪井をとめた。
「あんなやつ、殺してしまうんだ、とめるな、そこ退け」
阪井は上衣《うわぎ》を脱《ぬ》ぎ捨てて荒れまわった、このさわぎの最中に最敬礼のらっぱ卒がやってきた、かれは満身の力でもって阪井を後ろからはがいじめにした。「このやろう、今日《きょう》こそは承知ができねえぞ、さああばれるならあばれて見ろ、牙山《がざん》の腕前を知らしてやらあ」
四
阪井が柳を打擲《ちょうちゃく》して負傷させたということはすぐ全校にひびきわたった。上級の同情は一《いつ》に柳に集まった。
「阪井をなぐれなぐれ」
声はすみからすみへと流れた。
「この機会に阪井を退校さすべし」
この説は一番多かった。ある者は校長に談判しようといい、ある者は阪井の家へ襲撃《しゅうげき》しようといい、ある者は阪井をとらえて鉄棒《かなぼう》にさかさまにつるそうといった。憤激《ふんげき》! 興奮《こうふん》! 平素阪井の傲慢《ごうまん》や乱暴をにがにがしく思っていたかれらはこの際|徹底的《てっていてき》に懲罰《ちょうばつ》しようと思った。二時の放課になっても生徒はひとりも去らなかった。ものものしい気分が全校にみなぎった。
なにごとか始まるだろうという期待の下に人々は校庭に集まった。
「諸君!」
大きな声でもってどなったのはかつて阪井と喧嘩をした木俣ライオンであった。
「わが校のために不良少年を駆逐《くちく》しなければならん、かれは温厚なる柳を傷《きず》つけた、そうして」
「わかってる、わかってる」と叫ぶものがある。
「おまえも不良じゃないか」と叫ぶものがある。
木俣はなにかいいつづけようとしたが頭を掻いて引込んだ。人々はどっとわらった。これを口切りとして二、三人の三年や四年の生徒があらわれた。
「校長に談判しよう」
「やれやれ」
「徹底的にやれ」
少年の血潮は時々刻々に熱した。
「待てッ、諸君、待ちたまえ」
五年生の小原《こはら》という青年は木馬の上に立って叫んだ。小原は平素|沈黙寡言《ちんもくかげん》、学力はさほどでないが、野球部の捕手として全校に信頼されている。肩幅が広く顔は四角でどろのごとく黒いが、大きな目はセンターからでもマスクをとおしてみえるので有名である、だれかがかれを評して馬のような目だといったとき、かれはそうじゃない、おれの目は古今東西の書を読みつくしたからこんなに大きくなったのだといった。
身体《からだ》が大きくて腕力もあるが人と争うたことはないので何人《なにびと》もかれと親しんだ、木馬の上に立ったかれを見たとき、人々は鳴りをしずめた。小原の黒い顔は朱《しゅ》のごとく赤かった、かれは両手を高くあげてふたたび叫んだ。
「諸君は校長を信ずるか」
「信ずる」と一同が叫んだ。
「生徒の賞罰《しょうばつ》は校長の権利である、われわれは校長に一任して可《か》なりだ、静粛《せいしゅく》に静粛にわれわれは決してさわいではいかん」
「賛成賛成」の声が四方から起こった。狂瀾《きょうらん》のごとき公憤《こうふん》の波はおさまって一同はぞろぞろ家へ帰った。
そのとき職員室では秘密な取り調べが行なわれた。職員達はどれもどれもにがい顔をしていた。当時その場にいあわせた重《おも》なる生徒が五、六人ひとりずつ職員室へよばれることになった。一番最初に呼ばれたのは手塚であった、手塚はいつも阪井の保護を受けている、いつか三年と犬の喧嘩のときに阪井のおかげで勝利を占めた、かれはなんとかして阪井を助けてやりたい、そうして一層《いっそう》阪井に親しくしてもらおうと思った。
「柳の方から喧嘩をしかけたといえばそれでいい」
かれはこう心に決めた、が職員室へはいるとかれは第一に厳粛《げんしゅく》な室内の空気におどろいた。中央に校長のまばらに白い頭と謹直《きんちょく》な顔が見えた、その左に背の高いつるのごとくやせた漢文の先生、それととなりあって例の英語の朝井先生、磊落《らいらく》な数学の先生、右側には身体のわりに大きな声をだす歴史の先生、人のよい図画の先生、一番おわりには扉口《とぐち》に近く体操の先生の少尉《しょうい》がひかえている。
「あとをしめて」と少尉がどなった。手塚はあわてて扉をしめた。
「阪井はどうして柳をうったのか」と少尉がいった。
「ぼくにはわかりません」
「わからんということがあるかッ」
少尉はかみつくようにどなった。
「知ってるだけをいいたまえ」と朝井先生がおだやかにいった。
「幾何《きか》の答案をだして体操場へゆきますと柳がいました。そこへ阪井がきました、それから……」
手塚はさっと顔を赤めてだまった。
「それからどうした」と少尉《しょうい》がうながした。
「喧嘩をしました」
「ごまかしちゃいかん」と少尉はどなった。「どういう動機で喧嘩をしたか、男らしくいってしまわんときみのためにならんぞ」
「カンニングのその……」
「どうした」
「柳が阪井に教えてやらないので」
「それで阪井がうったのか」
「はい」
「一番先に答案ができたのは柳だ、それに柳が阪井を救わずに教室を出たのは卑怯《ひきょう》だ、利己主義《りこしゅぎ》だといったのはだれか」
「ぼくじゃありません」と手塚はしどろになっていった。
「きみでなければだれか」
「知りません」
「知らんというか」
「多分桑田でしょう」
「桑田か」
「はい」
「きみもカンニングをやるか」
「やりません」
「きみは一番うまいという話だぞ」
「それは間違いです」
「よしッ帰ってもよい」
手塚はねずみの逃ぐるがごとく室《へや》をでてほっと息をついた。雑嚢《ざつのう》を肩にかけて歩きながら考えてみると阪井を弁護しようと思ったはじめの志と全然反対にかえって阪井の不利益をのべたてたことになっている。
「これが阪井に知れたら、どんなめにあうかも知れない」
怜悧《れいり》なる手塚はすぐ一|策《さく》を案じて阪井をたずねた、阪井は竹刀《しない》をさげて友達のもとへいくところであった。
「やあきみ、大変だぞ」と手塚は忠義顔にいった。
「なにが大変だ」と阪井はおちついていった。
「先生も校長も非常におこってきみを退校させるといってる」
「退校させるならさせるがいいさ、片《かた》っ端《ぱし》からたたききってやるから」
「短気を起こすなよ、ぼくがうまくごまかしてきたから多分だいじょうぶだ」
「なんといった」
「柳の方から喧嘩を売ったのです。柳は生蕃に向かっておまえはふだんにいばってもなんにもできやしないじゃないかといっても生蕃はだまっていると……」
「おい生蕃とはだれのことだ」
「やあ失敬」
「それから?」
「柳が生……生……じゃない阪井につばをはきかけたから阪井がおこってたちあがると柳は阪井の顔を打ったので阪井は弁当をほうりつけたのです」
「うまいことをいうな、きみはなかなか口がうまいよ」
「そういわなければ弁護のしようがないじゃないか」
「だがおれはいやだ、おれはきみと絶交《ぜっこう》だ」と阪井は急にあらたまっていった。
「なぜだ」
「ばかやろう! おれは人につばを吐《は》きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しないんだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減《かげん》に言えよばかッ」
阪井はずんずん急ぎ足で去った、手塚はうらめしそうにその方を見やった。
「どっちがばかか、おれがしょうじきに白状《はくじょう》したのも知らないで……いまに見ろ退校させれるから」
かれはこうひとりでいって角《かど》を曲がった。
「だが先生達の顔色で見ると、柳の方へつく方が利益だ、そうだ、柳の見舞いにいってやろう」
学校では職員会議がたけなわであった。阪井の乱暴については何人《なんぴと》も平素|憤慨《ふんがい》していることである。人々は口をそろえて阪井を退校に処《しょ》すべき旨《むね》を主張した。
「試験の答案に、援軍きたらず零敗すと書くなんて、こんな乱暴な話はありません」と幾何学《きかがく》の先生がいった。
「しかし」と漢学の先生がいった、「阪井は乱暴だがきわめて純な点があります、うそをつかない、手塚のように小細工をしない、おだてられて喧嘩をするが、ものの理屈がわからないほうでもない、無論今度のことは等閑《とうかん》に付《ふ》すべからざることですが、退校は少しく酷《こく》にすぎはしますまいか」
「いや、あいつは破廉恥罪《はれんちざい》をおかして平気でいます、人の畑のいもを掘る、駄菓子屋《だがしや》の菓子をかっぱらう、ついこのごろ豆腐屋の折詰《おりづめ》を強奪《ごうだつ》してそのために豆腐屋の親父《おやじ》が復讐《ふくしゅう》をして牢獄《ろうごく》に投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききません、かれのために全校の気風が悪化してきました、雑草を刈《か》り取らなければ他の優秀な草が生長をさまたげられます、これはなんとかして断固《だんこ》たる処分にでなければなりますまい、いかがですか校長」
朝井先生がこういったとき、一同の目が校長に注がれた。校長は先刻から黙然として一言もいわずにまなこを閉《と》じていたがこのときようやくまなこをみひらいた。涙が睫毛《まつげ》を伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
「わかりました、諸君のいうところがよくわかりました、実は私はこのことあるを憂《うれ》いて、前後五回ほど阪井の父をたずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれを厳重にいましめないのです、これだけに手を尽くしても改悛《かいしゅん》せず、その悪風を全校におよぼすのを見ると、いまは断固たる処置をとらなきゃならない場合だと思います。しかしながら諸君、しかしながら……」
校長の語気は次第に熱してきた。
「キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷える羊《ひつじ》を救えというのがあります、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪いことをする阪井は憎《にく》いにちがいないが、それだけになおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにいる阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校にされればかれは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄《じぼうじき》になります、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落《だらく》させるようなものです、救い得る道があるなら救うてやりたいですな」
「いかにもなア」
感嘆《かんたん》の声が起こった、人々は校長が生徒を愛する念の深きにいまさらながらおどろいた。
「ごもっともです」と朝井先生はいった。「校長の情け深いお説に対してはもうしあげようもありません、しかし教育者は一頭のひつじのために九十九の羊を捨てることはできません、ひとりのコレラ患者《かんじゃ》のために全校の生徒を殺すことはできません、阪井については師範校からも苦情がきております、かれの父はかれよりも凶悪です、しかも政党の有力者であり助役であるところからしてその子がどんな悪いことをしても罰することができないのだと世間で学校を嘲笑《ちょうしょう》しています、学校の威厳が一《ひと》たびくずれると生徒が決してわれわれの訓戒をきかなくなります。かたがたこの場合断固たる処置をとられることを希望致します」
「よろしい、きめましょう、一週間の停学にしましょう、それでもだめだったら退校にしましょう、どんな罪があろうと、その罪の一半《いっぱん》は私の徳《とく》の足らないためだと私は思います、私も深く反省しましょう、諸君もより以上に注意してください、悪い親を持った一少年を学校が見捨てたら、もうそれっきりですからなあ」
寛大すぎるとは思ったが朝井先生
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