売りにでてください、二人《ふたり》でやればだいじょうぶです」
「そうだ」とお美代はうれしそうにいった。「そうだよ千三、私は女だからなにもできないと思っていたが、今夜から男になればいいのだ、伯父さんと同じ人になればいいのだ、そうしようね」
「お母さんに荷をかつがせて豆腐を売らせたくはないんだけれども……お母さん、ぼくはまだ小さいからしかたがありません、大きくなったらきっとこのうめあわせをします」
 チビ公の興奮《こうふん》した目はるりのごとくすみわたって瞳《ひとみ》は敢為《かんい》の勇気に燃えた。
 うとうとと眠ったかと思うともう東が白みかけたので母に起こされた、チビ公はいきおいよく起きて仕事にとりかかった、お美代もともに火をたきつけた、このいきおいにおされてお仙《せん》はぶつぶついいながらもやはり働きだした。
「伯母さんはなにもしなくてもいいからただ指図《さしず》だけしてください」
 とチビ公はいった。
 至誠はかならず天に通ずる、チビ公の真剣な労働は邪慳《じゃけん》のお仙の角《つの》をおってしまった、三人は心を一つにして、覚平《かくへい》が作る豆腐におとらないものを作りあげた。
「さあいこうぜ」とお美代はいせいよくいった。脚絆《きゃはん》をはいてたびはだしになり、しりばしょりをして頭にほおかむりをなしその上に伯父さんのまんじゅう笠《がさ》をかぶった母の支度《したく》を見たときチビ公は胸が一ぱいになった。
「らっぱはふけないから鈴《すず》にするよ」とお美代はわらっていった。
「じゃお先に」
 チビ公は荷をかついで家をでた、なんとなく戦場へでもでるような緊張した気持ちが五体にあふれた、かれは生まれてはじめて責任を感じた、いままでは寒いにつけ暑いにつけ商売を休みたいと思ったこともあった、また伯父さんにしかられるからしかたなしにでていったこともあった、しかしこの日は全然それと異《こと》なった一大革命《いちだいかくめい》が精神の上に稲妻《いなずま》のごとく起こった。
「おれがしっかりしなければみんなが困る」
 かれは警察にある伯父さんも伯母も母もやせ腕一本で養わねばならぬ大責任を感ずるとともに奔湍《ほんたん》のごとき勇気がいかなる困難をもうちくだいてやろうと決心させた。
 らっぱの音はほがらかにひびいた、かれは例のたんぼ道から町へはいろうとしたとき、今日《きょう》も生蕃が待っているだろうと思った。
 かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつもかれはこのところでいくどか躊躇《ちゅうちょ》した、かれは生蕃をおそれたのであった、がかれはいま、それを考えたとき恐怖《きょうふ》の念が夢のごとく消えてしまった。でかれは堂々とらっぱをふいた。
 町の角に……はたして生蕃が立っていた。
「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。
「おまえに食わせる豆腐《とうふ》はないぞ」とチビ公は昂然《こうぜん》といった。
「なにを?」
 生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつも涙《なみだ》ぐんでぺこぺこ頭を下げるチビ助《すけ》が、しかも昨夜かれの伯父がおれの父をなぐったことを知ってるチビ助が、復讐《ふくしゅう》のおそれも感ぜずにいつもより勇敢《ゆうかん》なのを見ると、実際これほどふしぎな現象はないのであった。
「待てッ」
「待っていられないよ、明日《あす》の朝またあおうね」
 チビ公はずんずん去ろうとした。
「こらッ」
 生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱の陰《かげ》から声が聞こえた。
「阪井、よせよ」
 それは柳光一であった。
「なんでえ」
「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。
「なんでえ」と生蕃がほえた。
「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」
「わすれはしねえ」
「じゃ、一緒に学校へいこう」
「しかし」
「もういいよ」
 光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は鳥打帽《とりうちぼう》をぬいで一礼した。
 この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では覚平《かくへい》が助役をなぐって拘留《こうりゅう》されたという噂《うわさ》が一円に拡がった、しかもそれは貧しき豆腐屋の子がになってくる豆腐を強奪したうらみだとわかったので町内の同情は流れの低きにつくがごとくチビ公に集まった。
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
 豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは凱歌《がいか》のごとく鳴りひびいた。
 二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
 かれは警部にこう哀願《あいがん》した。
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった。「だが阪井の方で示談《じだん》にしないと警察では困るんだ」
「監獄《かんごく》へいくんでしょうか」
「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」
 チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十五銭をだしていった。
「どうかよろしくお願いします」
「覚平《かくへい》さんだったね」とさしいれ屋の亭主《ていしゅ》がいった。
「はあ」
「覚平さんのさしいれはすんでるよ」
「三度分の弁当ですよ」
「ああすんでる」
「だれがしてくれたのです」
「だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」
「へえ、それじゃちり紙を一つ……」
「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」
「それも?」とチビ公はあきれて、「どなたがやってくだすったのですか」
「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」
「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」
「その人がみんなやってくれるからいいだろう」
 チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友達はあるだろうが、しかし匿名《とくめい》にしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意《こんい》にしている人でないかもしれぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれはそこをでた、家へ帰ると母もすでに帰っていた。生まれてはじめててんびん棒をかついだので母はがっかりつかれて、肩を冷水で冷やしていた。
「どうでしたお母《かあ》さん」とチビ公がいった。
「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。
「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」
 かれはからのおけを見せ、それから売りだめを伯母にわたしてさしいれものの一件を語った。
「だれだろうね」
「さあだれだろう」
 伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名《とくめい》の必要のない人であり、毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。
 その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んで喧嘩《けんか》をするのは困るが、さてその人が牢獄《ろうごく》にあると思えばさびしさが一層《いっそう》しみじみと身に迫《せま》る。
「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母は伯母にいった。
「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」と伯母がいった。チビ公をるすにして二人《ふたり》はそれぞれ知人をたよって示談の運動をした。
「よろしい、なんとかしましょう」
 こう快諾《かいだく》してくれた人は四、五人もあったが、翌日《よくじつ》になると悄然《しょうぜん》としてこういう。
「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」
 望みの綱《つな》も切れはてて一家三人はたがいにため息をついた。もとより女と子どものことである、心は勇気にみちてもからだの疲労《ひろう》は三日目の朝にはげしくおそうてきた。母の肩は紫《むらさき》に腫《は》れて荷を負うことができない、チビ公は睡眠《すいみん》の不足と過度の労働のために頭が大盤石《だいばんじゃく》のごとく重くなり動悸《どうき》が高まり息苦しくなってきた。
 豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。
 示談が不調で覚平《かくへい》は監獄《かんごく》へまわされた。

         三

 何人《なんぴと》が覚平のさしいれ物をしたかは永久の疑問として葬《ほうむ》られた。しかしチビ公の一家は次第次第に貧苦に迫った。夜中の二時に起きて豆腐を作れば朝にはもうつかれて町をまわることができない。町をまわろうとすれば夜中に豆腐を作ることができない。このためにお美代は女手一つでわずかばかりの豆腐をつくり、チビ公一人が売りに出ることにきめた。
 製作の量が少ないので、いくら売れてももうける金額はきわめて少なくなった。チビ公はいつも帰り道に古田からたにしを拾うて帰った。一家三人のおかずはたにしとおからばかりであった。伯母のお仙は毎日のように愚痴《ぐち》をこぼした。
「おまえのためにこんなことになったよ」
 これを聞くたびにチビ公はいつも涙ぐんでいった。
「伯母さん、ぼくはどんなにもかせぐから、そんなことをいわないでくださいよ」
 ある日かれは豆腐《とうふ》おけをかついで例の裏道《うらみち》を通った、かれの耳に突然異様の音響が聞こえた。それは医者の手塚の家であった。夕日はかっと植え込みを染めて土蔵の壁が燃ゆるように赤く反射していた。欝蒼《うっそう》と茂った樹々の緑のあいだに、明るいぼたんの花が目ざむるばかりにさきほこっているのが見える。そこに大きな池があって土橋をかけわたしみぎわには白いしょうぶも見える。それよりずっと奥に回廊《かいろう》紆曲《うきょく》して障子の色まっ白に、そこらからピアノの音が栄華をほこるかのごとく流れてくる。
「ああその家はぼくの父の家だったのだ」
 チビ公は暗然としておけを路傍《ろぼう》におろして腕をくんだ。
「お父さんは政党のためにこの家までなくしてしまったのだ。お父さんはずいぶん人の世話もし、この町のためになることをしたのだが、いまではだれひとりそれをいう者がない。その子のぼくは豆腐を売って……それでもご飯を食べることができない」
 チビ公は急になきたくなった、かれは自分が生まれたときには、この邸《やしき》の中を女中や乳母《うば》にだかれて子守り歌を聞きながら眠ったことだろうと想像した。
「つまらないな」とかれは歎息《たんそく》した。「いくら働いてもご飯が食べられないのだ、働かない方がいい、死んでしまうほうがいい、ぼくなぞは生きてる資格がないのだ、路傍のかえるのように人にふまれてへたばってしまうのだ」
 暗い憂欝《ゆううつ》はかれの心を閉《と》ざした。かれは自分の影法師がいかにも哀《あわ》れに細長く垣根に屈折しているのを見ながらため息をはいた。
「影法師までなんだか見すぼらしいや」
 ピアノの音は樹々の葉をゆすって涼風《すずかぜ》に乗ってくる。
「お父さんのある者は幸福だなあ、ああしてぼうんぼうんピアノをひいて楽しんでいる」
 かれはがっかりしておけをかついだ。つかれた足をひきずって二、三|間《げん》歩きだすとそこでひとりの女の子にあった。それは光一の妹の文子《ふみこ》であった。かの女《じょ》は尋常《じんじょう》の五年であった。下《しも》ぶくれのうりざね顔で目は大きすぎるほどぱっちりとして髪を二つに割って両耳のところで結び玉をこさえている。元禄袖《げんろくそで》のセルに海老茶《えびちゃ》のはかまをはき、一生懸命にゴムほおずきを口で鳴らしていた。
「今晩は」とチビ公は声をかけた。
「今晩は」と文子はにっこりしていった。がすぐ思いだしたように、
「青木さん、兄さんがあなたを探してたわ」
「兄さんが?」
「ああ」
「何か用事があるんですか」
「そうでしょう私知らないけれども」
 文子はこういってまたぶうぶうほおずきをならした。
「急用なの?」
「そうでしょう」
「なんだろう」
「会えばわかるじゃないの?」
「それはそうですな」
「兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだ
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