年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうたいつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗《へんぱ》もなく、貧富の差異もなく、勉強するものは一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じ巣《す》のはとやすずめは西と東、上と下へ画然《かくぜん》とわかれた。
 親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範《しはん》へ進み商業学校へ進む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。
 チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。
「やいチビ」
 突然《とつぜん》声が聞こえて路地の垣根から生蕃があらわれた。
「折詰《おりづめ》をよこせ」
「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。
「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」
「いやだ、これは伯父《おじ》さんにあげるんだから」
「やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」
 生蕃は豊公から掠奪したたいの尾をつかんで胴のところをむしゃむしゃ食べながらいった。
「阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐《とうふ》を食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍《かんにん》してくれたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか」
「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」
「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」
「やい小僧《こぞう》、こらッ、三年のライオンを退治《たいじ》した生蕃を知らないか、よしッ」
 生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。
「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」
 チビ公は両腕を組んでふところを守った。
「えい、面倒だ」
 生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一は伯父《おじ》を喜ばせようという一心にのぼせつめている、一はわが腹をみたそうという欲望に気狂《きぐる》わしくなっている。大兵《だいひょう》とチビ公、無論敵し得《う》べくもない、生蕃はチビ公の横面をぴしゃりとなぐった、なぐられながらチビ公はてぬぐいの端《はし》をにぎってはなさない。
「えいッ」
 声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるかに生蕃の琵琶歌《びわうた》が聞こえた。
「それ達人は大観す……栄枯は夢か幻《まぼろし》か……」
 チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のためにさいなまれる、この世のありとあらゆる迫害《はくがい》はただわれにのみ集まってくるのだと思った。
 はかまのどろをはらってとぼとぼと歩きだしたが、いろいろな悲憤《ひふん》が胸に燃えてどこをどう歩いたかわからなかった、かれはひょろ長いポプラの下に立ったときはじめてわが家へきたことを知った、家の中では暗い電灯の下で伯父《おじ》が豆をひいている音が聞こえる。
「ぎいぎいざらざら」
 うすをもるる豆の音がちょうどあられのようにいかめしい中に、うすのすれる音はいかにも閑寂《かんじゃく》である、店の奥には母が一生懸命に着物を縫《ぬ》うている。やせた顔におくれ毛がたれて切れ目の長い目で針を追いながらふと手をやめたのはわが子の足音を聞きつけたためであろう。
「折詰がない」
 こう思ったときチビ公はこらえられなくなってなきだした。
「だれだえ」
 母の声がした。
「千三《せんぞう》か」
 石うすの音がやんだ。そうして戸をあけるとともに伯父《おじ》の首だけが外へ出た。
「なにをしてるんだ千三」
 チビ公はだまっている。
「おい、ないてるのか」
 伯父は手をひいて家へいれた。母は心配そうにこのありさまを見ていた、伯母《おば》はすでに寝てしまったらしい。
「どうしたんだ」
「伯父さんにあげようと思ってぼくは……」
 チビ公はとぎれとぎれに仔細《しさい》を語った。
「まあ着物はやぶけて、はかまはどろだらけに……」
 と母も悲憤《ひふん》の涙にくれていった。
「助役の子だね、阪井の子だね、よしッ」
 伯父の顔はまっかになったかと思うとすぐまっさおになった。かれは水槽《みずおけ》の縁《へり》にのせたてぬぐいを、ふところに押しこんで家を飛びだした。
「伯父さんをとめて」と母が叫んだ。チビ公はすぐ外へ飛びだした。
「だいじょうぶだ、心配すな、みんな寝てもいいよ」
 伯父さんは走りながらこういった。
「待っておいで」
 母はこういってぞうりをひっかけて伯父のあとを追うた。チビ公は茶の間へあがって時計《とけい》を見た、それは九時を打ったばかりであった。チビ公はあがりかまちに腰をかけて伯父と母の帰りを待っていた。伯母さんは昼の中は口やかましいにかかわらず夜になるとまったく意気地《いくじ》がなくなって眠ってしまうので起こしたところで起きそうにもない。豆腐屋《とうふや》は未明に起きねばならぬ商売だ、チビ公は昼の疲れにうとうとと眠くなった。
「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったん襲《おそ》いきたった睡魔《すいま》はなかなかしりぞかない、ぐらりぐらりと左右に首を動かしたかと思うと障子に頭をこつんと打った、はっと目をさまして庭へ出て顔を洗った、月はポプラの枝々をもれて青白い光を戸板や石うすやこもや水槽《みずおけ》に落とすと、それらの影がまざまざと生きたようにういてくる。チビ公は口笛をふいた。
 時計は十時を打った。
「伯父さんが喧嘩をしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」
 チビ公はこう考えたとき少年の血潮《ちしお》が五体になりひびいた。
「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、伯父さんひとりではとてもかなわないだろう、そうすると……」
 かれはもうだまっていることができなくなった、身体《からだ》は小さいがおれの方が正しいんだ、伯父さんを助けてあげなきゃならない。
 かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえて外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にも伯父が乱闘乱戦に火花をちらしているかのように思った、胸が高鳴りして身体《からだ》がふるえた。町に松月楼《しょうげつろう》という料理屋がある、その前にさしかかったときかれはただならぬ物音を聞いた。ひとりの男がはだしのまま、
「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。
「もしや伯父がここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公の肩にもたれた。
「大変だよ千三《せんぞう》、伯父さんが……」
 母はなかばなき声であった。ばらばらと玄関《げんかん》に五、六人の影があらわれた。
「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の小僧《こぞう》をおどかして毎朝|豆腐《とうふ》を強奪《ごうだつ》しやがる、おれは貧乏人《びんぼうにん》だ、貧乏人のものをぬすんでも助役の息子《むすこ》ならかまわないというのか」
 たしかに伯父さんの声である。
「子どもの喧嘩にでしゃばって、相手の親をなぐるという法があるか」
 二、三人がどなった。
「あやまらないからなぐったんだ」
「ぐずぐずいわんと早く歩け」
「おれをどうするんだ」
 五、六人の人々が玄関口で押しあった。その中から伯父さんの半裸体《はんらたい》の姿があらわれた、伯父さんの顔はまっさおになってくちびるから血がしたたっていた、かれのやせた肩は呼吸の度ごとにはげしく動いた。
「さあでろ」と巡査《じゅんさ》がいった。
「はきものがない」と伯父さんがいった。
「そのままでいい」
「おれはけだものじゃねえ」
 だれかが外からぞうりを投げてやった、伯父さんはそれをはいた。
「伯父さん!」とチビ公は門内にかけこんでいった。
「おお千三か、おまえのかたきは討ってやったぞ、いいか明日《あす》から商売に出るときにはな、鉄砲となぎなたとわきざしとまさかりと七つ道具をしょってでろ、いいか、助役のせがれが強盗《ごうとう》にでても警察では豆腐屋を保護してくれないんだからな」
 こういった伯父さんの息は酒くさかった。
「歩け」と巡査がいった。
「待ってくださいおまわりさん」とチビ公は巡査の前にすわった。
「伯父さんは酔《よ》ってるんです、伯父さんをゆるしてください、明日《あす》の朝になって酒がさめたら伯父さんと一緒《いっしょ》に警察へあやまりにまいります、伯父さんがいなければ私一人では豆腐を作ることができません」
 チビ公の声は涙にふるえていた。
「なにをぬかすかばか」と伯父さんがどなった。
「商売ができなかったらやめてしまえ、商売をしたからって助役の息子に食われてしまうばかりだ」
 伯父さんはのそのそと歩きだした、かれは門の外になくなく立っている妹(チビ公の母)を見やって少し躊躇《ちゅうちょ》したが、
「あとはたのむぜ、おれは強盗《ごうとう》の親玉を退治《たいじ》たんだから、これから警察へごほうびをもらいにゆくんだ」
 母がなにかいおうとしたが伯父はずんずんいってしまった、ひとりの巡査と、ふたりの町の人がつきそうていった。チビ公と母はどこまでもそのあとについた、伯父さんは警察の門をはいるときちらとふたりの方をふり向いた。
「困《こま》ったねえ」と母がいった。
「阪井にけがをさしたんでしょうか」
「そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね」
「今晩帰ってくるでしょう?」
「さあ」
 ふたりは思い思いの憂欝《ゆううつ》をいだいて家へ帰った、母は戸口に立ちどまって深い溜《た》め息《いき》をついた、かの女《じょ》は伯母《おば》のお仙《せん》をおそれているのである、伯父は親切だが伯母はなにかにつけて邪慳《じゃけん》である、たよるべき親類もない母子《おやこ》は、毎日伯母の顔色をうかがわねばならぬのであった。
 ふたりはようやく家へはいった、そうして伯母を起こして仔細《しさい》を語った。
「へん」と伯母は冷ややかにわらった。「なんてえばかな人だろう、この子がかわいいからって助役さんをなぐるなんて……明日《あす》から商売をどうするつもりだろう、どうしてご飯を食べてゆくつもりなの?」
 お仙は眠い目もすっかりさめて口ぎたなく良人《おっと》をののしった。
「商売はぼくがやります、伯母さん、そんなに伯父さんを悪くいわないでください」
 チビ公は決然とこういった。
「やれるならやってみるがいいや、おら知らないよ」
 お仙はふたたび寝床へもぐりこんだ、チビ公と母のお美代《みよ》は床へはいったがなかなか眠れない。
「なによりもね、さしいれ物をしなくちゃね」とお美代がいった。
「さしいれ物ってなあに?」
「警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね」
「お母《かあ》さんが弁当をこさえてくれればぼくが持っていくよ」
「それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ」
「いくら?」
「一|遍《ぺん》の弁当は一番安いので二十五銭だろうね」
「三度なら七十五銭ですね」
「ああ」
「七十五銭!」
 七十五銭はチビ公ひとりが一日歩いてもうける分である、それをことごとく弁当代にしてしまえば三人がどうして食べてゆけよう。チビ公は当惑《とうわく》した。
「豆をひくにしても煮《に》るにしても、おまえの腕ではとてもできないし、私《わたし》の考えでは当分休むよりほかにしかたがないが、そうすると」
 お美代はしみじみといった。
「休みません、伯父さんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐった伯父さんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます」
「でもさしいれ物はね」
「お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくと一緒《いっしょ》に豆腐《とうふ》を作って、それから伯父さんの回り場所を
前へ 次へ
全29ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング