あります、ただ、諸君にして私を思う心あるなら、その美しき友情をつぎにきたるべき校長にささげてくれたまえ、諸君の一言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわれるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢《ごうきかかん》なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざればそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知っている、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水《うんざんえんすい》相《あい》隔《へだ》つれども一片の至情ここに相許せば、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめてくれたまえ、私も諸君を思えばこそこの地を去るのだ……」
 声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、次第に興奮して飛沫《しぶき》がさっと岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同は大鳥の翼《つばさ》にだきこまれた雛鳥《ひなどり》のごとく鳴りをしずめた。
「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志は全然|葬《ほうむ》られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世界のことに指を染《そ》めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正しきを踏《ふ》んでおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈《いの》ろう、諸君もまたいままでどおりにりっぱに勉強したまえ」
 小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人《なんぴと》もいうものがない、校長がいかにも悲しげに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふたたびなきだした。
 後列の方から扉口《とぐち》へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講堂をでた。
「だめかなア」
 光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音は次第に近づいた、そうして光一を通りすごした。
「青木君」かれは呼びとめ
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