かなかよいところもあるよ」
 しかし問題はそれだけでなかった、ちょうどそのときは第一期の試験であった、試験! それは生徒に取って地獄《じごく》の苦しみである、もし平素|善根《ぜんこん》を積んだものが死んで極楽にゆけるものなら、平素勉強をしているものは試験こそ極楽の関門である、だがその日その日を遊んで暮らすものに取っては、ちょうどなまけ者が節季《せっき》に狼狽《ろうばい》すると同じもので、いまさらながら地獄のおそろしさをしみじみと知るのである。
 浦和中学は古来の関東気質《かんとうかたぎ》の粋《すい》として豪邁不屈《ごうまいふくつ》な校風をもって名あるが、この年の二年にはどういうわけか奇妙な悪風がきざしかけた。それは東京の中学校を落第して仕方なしに浦和へきた怠惰生《たいだせい》からの感染《かんせん》であった。孔子《こうし》は一人《いちにん》貪婪《どんらん》なれば一国《いっこく》乱《らん》をなすといった、ひとりの不良があると、全級がくさりはじめる。
 カンニングということがはやりだした、それは平素勉強をせない者が人の答案をぬすみみたり、あるいは謄写《とうしゃ》したりして教師の目をくらますことである、それには全級の聯絡《れんらく》がやくそくせられ、甲《こう》から乙《おつ》へ、乙から丙《へい》へと答案を回送するのであった、もっと巧妙な作戦は、なにがしの分はなにがしが受け持つと、分担を定める。
 この場合にいつもぎせい者となるのは勉強家である。怠惰《たいだ》の一団が勉強家を脅迫《きょうはく》して答案の回送を負担せしめる。もし応じなければ鉄拳《てっけん》が頭に雨《あま》くだりする。大抵《たいてい》学課に勉強な者は腕力が弱く怠《なま》け者は強い。
 カンニングの連中にいつも脅迫されながら敢然《かんぜん》として応じなかったのは光一であった。もっともたくみなのは手塚であった。
 この日は幾何学《きかがく》の試験であった。朝のうちに手塚が光一のそばへきてささやいた。
「きみ、今日《きょう》だけ一つ生蕃を助けてやってくれたまえね」
「いやだ」と光一はいった。
「それじゃ生蕃がかわいそうだよ」
「仕方がないさ」
「一つでも二つでもいいからね」
「ぼくは自分の力でもって人を助けることは決していといはせんさ、だが、先生の目をぬすんでこそこそとやる気持ちがいやなんだ、悪いことでも公明正大にやるな
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