公はあがりかまちに腰をかけて伯父と母の帰りを待っていた。伯母さんは昼の中は口やかましいにかかわらず夜になるとまったく意気地《いくじ》がなくなって眠ってしまうので起こしたところで起きそうにもない。豆腐屋《とうふや》は未明に起きねばならぬ商売だ、チビ公は昼の疲れにうとうとと眠くなった。
「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったん襲《おそ》いきたった睡魔《すいま》はなかなかしりぞかない、ぐらりぐらりと左右に首を動かしたかと思うと障子に頭をこつんと打った、はっと目をさまして庭へ出て顔を洗った、月はポプラの枝々をもれて青白い光を戸板や石うすやこもや水槽《みずおけ》に落とすと、それらの影がまざまざと生きたようにういてくる。チビ公は口笛をふいた。
 時計は十時を打った。
「伯父さんが喧嘩をしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」
 チビ公はこう考えたとき少年の血潮《ちしお》が五体になりひびいた。
「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、伯父さんひとりではとてもかなわないだろう、そうすると……」
 かれはもうだまっていることができなくなった、身体《からだ》は小さいがおれの方が正しいんだ、伯父さんを助けてあげなきゃならない。
 かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえて外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にも伯父が乱闘乱戦に火花をちらしているかのように思った、胸が高鳴りして身体《からだ》がふるえた。町に松月楼《しょうげつろう》という料理屋がある、その前にさしかかったときかれはただならぬ物音を聞いた。ひとりの男がはだしのまま、
「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。
「もしや伯父がここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公の肩にもたれた。
「大変だよ千三《せんぞう》、伯父さんが……」
 母はなかばなき声であった。ばらばらと玄関《げんかん》に五、六人の影があらわれた。
「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の小僧《こぞう》をおどかして毎朝|豆腐《とうふ》を強奪《ごうだつ》しやがる、おれは貧乏人《びんぼうにん》だ、貧乏人のものをぬすんでも助役の息子《むすこ》ならかまわないというのか」
 たしかに伯父さんの声である。

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