ちくしょう》!」
茫然《ぼうぜん》としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑《ゆうわく》しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守《るす》ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして黙々塾《もくもくじゅく》へでかけた。塾《じゅく》にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠《や》せたひげ面《づら》がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者《ひきょうもの》は浦中にあるかも知らんが、黙々塾《もくもくじゅく》にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹《ちゅうっぱら》になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日|何升《なんじょう》の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回《がんかい》は一|瓢《ぴょう》の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長《じゅくちょう》があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
光一は赫々《かっかく》と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵《たいてい》千三が散歩する道を知っていたので調神社《つきのみやじんじゃ》の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと
前へ
次へ
全142ページ中128ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング