十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
 文子はがま口をあけて銀貨を掌《てのひら》に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。
「あら、たりないわ」
 文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは冷《ひ》ややかに文子を見やった。
 家へ帰ってお母さんにお銭《あし》をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだにこの本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が私は柳《やなぎ》の娘ですから宅《たく》へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二《ふた》つ返事《へんじ》で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
 おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
 文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提《てさ》げ袋《ぶくろ》から銀貨を取りだした。
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
 文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは水臭《みずくさ》いわ」
 文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生《い》け垣《がき》の下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。
「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。
「なにをしてるの?」と新ちゃんがいった。
「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人は
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