の中心点である、そうだ、中心点だ、車の軸《じく》だ、国家を支える大黒柱だ、ギリシャの神話にアトラス山は天が墜《お》ちるのを支《ささ》えている山としてある。天がおちるのを支えるのは英雄だ、花だなんてそんな浮わついた考えではまだ語るにたらん。もっと修養しろ馬鹿ッ」
 すべてこういう風である、どんなにばかといわれても安場はそれを喜んでいた。
「先生はありがたいな」
 かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へでて長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう野面《のづら》をふく、かれあしはざわざわ鳴って雲が低くたれる、安場は平気である。かれは高い堤に立って胸一ぱいにはって高らかに歌う。
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ああ玉杯《ぎょくはい》に花うけて、緑酒《りょくしゅ》に月の影《かげ》やどし、
治安の夢《ゆめ》にふけりたる、栄華《えいが》の巷《ちまた》低く見て、
向ヶ岡《むこうがおか》にそそり立つ、
五寮《ごりょう》の健児《けんじ》意気高し。……
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 バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの野面《のづら》をわたり、べきべきたる落雲を破って、天と地との広大無辺な間隙を一ぱいにふるわす、チビ公はだまってそれを聞いていると、体内の血が躍々《やくやく》と跳《おど》るような気がする。自由豪放な青春の気はその疲《つか》れた肉体や、衰《おとろ》えた精神に金蛇銀蛇の赫耀《かくよう》たる光をあたえる。
「もっとやってくれ」とかれはいう。
「うむ、よしッ」
 安場は七輪《しちりん》のような顔をぐっと屹立《きつりつ》させると同時に鼻穴をぱっと大きくする、とすぐいのししのようにあらい呼吸《いき》をぷうとふく。
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ふようの雪の精をとり、芳野《よしの》の花の華《か》をうばい、
清き心のますらおが、剣《つるぎ》と筆とをとり持ちて、
一たび起《た》たば何事か、
人生の偉業《いぎょう》成らざらん。
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 うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての高邁《こうまい》な不撓《ふとう》な奮闘的な気魄《きはく》があらしのごとく突出してくる。チビ公は涙をたれた。
「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と
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