こうの山々もことごとく桜である。右も桜左も桜、上も桜下も桜、天地は桜の花にうずもれて白《はく》一白《いっぱく》、落英《らくえい》繽紛《ひんぷん》として顔に冷たい。
「ああきれいなところだなあ」
こう思うとたんにしずかに馬蹄《ばてい》の音がどこからとなくきこえる。
「ぱかぱかぱかぱか」
煙のごとくかすむ花の薄絹《うすぎぬ》を透《とお》して人馬の行列が見える。にしきのみ旗、にしきのみ輿《こし》! その前後をまもるよろい武者! さながらにしき絵のよう。
行列は花の木の間を縫《ぬ》うて薄絹の中から、そろりそろりと現われてくる。
「下に座って下に座って」
声が聞こえるのでわきを見るとひとりの白髪の老翁《ろうおう》が大地にひざまずいている。
「おじいさんこれはなんの行列ですか」
こうたずねるとおじいさんは千三の顔をじっと眺めた、それは紙幣で見たことのある武内宿禰《たけのうちのすくね》に似た顔であった。
「あれはな、後村上天皇《ごむらかみてんのう》がいま行幸《みゆき》になったところだ」
「ああそれじゃここは?」
「吉野《よしの》だ」
「どうしてここへいらっしったのです」
じいさんは千三をじろりと見やったがその目から涙がぼろぼろこぼれた。一円|紙幣《さつ》がぬれては困《こま》ると千三は思った。
「逆臣《ぎゃくしん》尊氏《たかうじ》に攻《せ》められて、天《あめ》が下《した》御衣《ぎょい》の御袖《おんそで》乾《かわ》く間も在《おわ》さぬのじゃ」
「それでは……これが……本当の……」
千三は仰天して思わず大地にひざまずいた。このとき行列が静々とお通りになる。
「まっ先にきた小桜縅《こざくらおどし》のよろい着て葦毛《あしげ》の馬に乗り、重籐《しげどう》の弓《ゆみ》を持ってたかの切斑《きりふ》の矢《や》を負い、くわ形《がた》のかぶとを馬の平首につけたのはあれは楠正行《くすのきまさつら》じゃ」
とおじいさんがいった。
「ああそうですか、それと並んで紺青《こんじょう》のよろいを着て鉢巻きをしているのはどなたですか」
「あれは正行《まさつら》の従兄弟《いとこ》和田正朝《わだまさとも》じゃ」
「へえ」
「そら御輿《みこし》がお通りになる、頭をさげい、ああおやせましましたこと、一天万乗《いってんばんじょう》の御君《おんきみ》が戦塵《せんじん》にまみれて山また山、谷また谷、北に南に御《お
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