だ、じつに好機会だ、わざわいが転じて福となるぜ、おい、早く退院してくれ」
「ちがいます」と巌《いわお》はふたたび叫んだ。「覚平はぼくらを救いだしてくれたのです、ぼくもお父さんも煙にまかれて倒れたところをあの人が火の中をくぐって助けてくれました」
「ばかッ、だまってろ、おまえはなんにも知らないくせに」と猛太はどなった。
「なんにしてもあいつがその場にいたということがふしぎじゃないか」と町長がいった。
「そうだそうだ」
町長は喜び勇んで室をでていった。あとで猛太はそのまま身動きもせずに考えこんだ。巌は繃帯《ほうたい》だらけの顔を天井《てんじょう》に向けたままだまった、父と子はたがいに眼を見あわすことをおそれた。陰惨な沈黙が長いあいだつづいた。
巌の目からはてしなく涙が流れた、かれはそれをこらえようとしたがこらえきれずにしゃくりあげた。
「お父さん」とかれはとうとういった。父はやはりだまっている。
「お父さん、あなたはぼくのお父さんでなくなりましたね」
「なにをいうか」と父はどなった。
「お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あなたはぼくに義侠ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪におとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった」
「生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの身体《からだ》じゃない、同志会をしょって立ってるからだだ、浦和町のために生きてるからだだ、豆腐屋《とうふや》ひとりぐらいをぎせいにしても天下国家の利益をはからねばならんのだ」
「むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもって天下国家がおさまるでしょうか」
「ばかばかばか」と父は大喝した。そうして急いで室をでようとした。
「待ってください」
巌は痛さをわすれて寝台の上に這《は》いあがり片手を伸ばして父のそでをつかんだ。
「ちょっとまってください、お父さん、ぼくの一生のおねがいです」
「放せ、放さんか」と父は叫んだ。
「放しません、お父さん、たった一言いわしてください、お父さん、ぼくは不孝者です、学校を退学されました、町の者ににくまれました、それはねえお父さん、ぼくの考えがまちがっていたからです、お父さんはぼくがおさないときからぼくに強く
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