たがかれにはわからなかった。こういうときに家にいるとろくなことがないと思ったのでかれはそっと外へでた。町を一巡してふたたび帰ると父の室《へや》に来客があった。それは役場の庶務課長の土井という老人であった、この老人は非常に好人物という評判《ひょうばん》も高いが、非常によくばりだという評判も高い、つまり好人物であってよくばりなのである。
母はどこへいったか姿が見えない、父と土井老人は酒を飲みながら話はよほど佳境に入ったらしい。
「心配するなよ、なんでもないさ、そんな小さな量見では天下が取れないぜ」
父の声は快活豪放であった。
「でも……そのね、町会があんなにさわぎ出すと、どうしてもね……」
「もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はッはッはッ」
わらいがでるようでは父はよほど酔《よ》っていると巌は思った。
「しかし、いよいよ明日《あす》ごろ……多分明日ごろ、検事が……あるいは検事が調べにくるかもしれんので……」
「なにをいうか、検事がきたところでなんだ、証拠《しょうこ》があるかッ」
「帳簿はその……」
「焼いてしまえ」
老人は「あっ」と声をあげたきりだまってしまった。
「はッはッはッ」と猛太はわらった。が巌の足音を聞いてすぐどなった。
「だれだッ」
「ぼくです」
「巌か、何遍《なんべん》床屋《とこや》へゆくんだ、いくら頭をかっても利口にならんぞ」
巌はだまって自分の室にはいり机に向かって本を読みはじめた、かれは本を読むと眠くなるのがくせである、いく時間机にもたれて眠ったかわからないが、がらがらと戸をあける音に眼をさますと、客はすでに去り、母も床についたらしい。
「なんだろう」
こう思ったときかれは父が外へでる姿を見た。
「どこへゆくんだろう」
俄然《がぜん》としてかれの頭に浮かんだのは、チビ公の伯父覚平が父猛太をうかがって復讐《ふくしゅう》せんとしていることである、今日《きょう》も役場をまちがって税務署へ闖入《ちんにゅう》したところをチビ公がきてつれていったそうだ、へびのごとく執念深《しゅうねんぶか》いやつだから、いつどんなところから飛びだして暴行を加えるかもしれない。
「父を保護しなきゃならん」
巌は立ちあがった、かれは細身の刀をしこんだ黒塗りのステッキ(父が昔愛用したもの)を小脇にかかえて父のあとをつけた。二十日《はつか》あまりの
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