た》の狼児《らうじ》は狼狽《らうばい》して悉《ことごと》く遁失《にげう》せ、又或時は幼時|嘗《かつ》て講読したりし、十八|史略《しりやく》中《ちゆう》の事実、即ち『禹《う》江《こう》を渡《わた》る時《とき》、蛟龍《かうりよう》船《ふね》を追ふ、舟中《しうちゆう》の人《ひと》皆《みな》慴《おそ》る、禹《う》天を仰いで、嘆じて曰《いは》く、我《われ》命《めい》を天に享《う》く、力を尽して、万民を労す、生は寄《き》なり、死は帰《き》なりと、龍《りよう》を見る事、蜿※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《えんてい》の如く、眼色《がんしよく》変《へん》ぜず、龍《りよう》首《こうべ》を俯《ふ》し尾を垂《た》れて、遁《のが》る。』と云へる有様の歴々《あり/\》と目前に現はれ、しかも妾《せふ》は禹《う》の位置に立ちて、禹《う》の言葉を口に誦《しよう》し、龍《りよう》をして遂《つひ》に辟易《へきえき》せしめぬ。然るに分娩《ぶんべん》の際《さい》は非常なる難産にして苦悶二昼夜に亙《わた》り、医師の手術によらずば、分娩《ぶんべん》覚束《おぼつか》なしなど人々|立騒《たちさわ》げる折しも、恰《あたか》も陣痛起りて、それと同時に大雨《たいう》篠《しの》を乱《みだ》しかけ、鳴神《なるかみ》おどろ/\しく、はためき渡りたる其《その》刹那《せつな》に、児《じ》の初声《うぶごゑ》は挙《あが》りて、左《さ》しも盆《ぼん》を覆《くつがへ》さんばかりの大雨《たいう》も忽《たちま》ちにして霽《は》れ上《あが》りぬ。後《あと》にて書生の語る所によれば、其日《そのひ》雨の降りしきれる時、世に云ふ龍《たつ》まきなるものありて、その蛇《へび》の如き細き長き物の天上するを見たりきといふ。妾《せふ》は児《じ》の重《かさ》ね/″\龍《りよう》に縁《えん》あるを奇《き》として、それに因《ちな》める名をば命《つ》けつ、生《お》ひ先きの幸《さち》多かれと祷《いの》れるなりき。
三 児《じ》の入籍
 児《じ》を分娩《ぶんべん》すると同時に、又も一《いつ》の苦悶は出で来《きた》りぬ。そは重井《おもゐ》と公然の夫婦ならねば、児《じ》の籍をば如何《いか》にせんとの事なりき。幸《さいはひ》なるかな、妾《せふ》の姙娠中《にんしんちゆう》屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》診察を頼みし医師は重井《おもゐ》と同郷の人にして、日頃《ひごろ》重井《おもゐ》の名声を敬慕し、彼と交誼《こうぎ》を結ばん事を望み居たれば、此人《このひと》によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀《はか》る所ありしに、義侠《ぎけふ》に富める人なりければ直ちに承諾し、己《おの》れ未《いま》だ一子《いつし》だになきを幸ひ、嫡男《ちやくなん》として役所に届出《とゞけい》でられぬ。斯《かく》て両人とも辛《から》ふじて世の耳目《じもく》を免《まぬ》かれ、死よりもつらしと思へる難関《なんくわん》を打越えて、ヤレ嬉しやと思ふ間もなく、郷里より母上|危篤《きとく》の電報は来《きた》りぬ。
四 愛着
 分娩後《ぶんべんご》未《いま》だ三十日とは過ぎざりし程なりければ、遠路《ゑんろ》の旅行危険なりと医師は切《せつ》に忠告したり。左《さ》れど今回の分娩《ぶんべん》は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言ひ分けがたく、殊には母上の病気とあるに、争《いか》で余所《よそ》にやは見過《みすご》すべき、仮《よ》し途中にて死なば死ね、思ひ止《と》まるべくもあらずとて、人々の諫《いさ》むるを聞かず、叔母と乳母とに小児を托して引かるゝ後髪《うしろがみ》を切払《きりはら》ひ、書生と下女とに送られて新橋《しんばし》に至り、発車を待つ間にも児《じ》は如何《いか》になし居るやらんと、心は千々《ちゞ》に砕けて、血を吐く思ひとは是なるべし。実《げ》に人生の悲しみは頑是《ぐわんぜ》なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強《し》ひて堪へねばならぬとは、是れも偏《ひとへ》に秘密を契《ちぎ》りし罪悪の罰ならんと、吾れと心を取り直《なほ》して、唯《たゞ》一人心細き旅路に上《のぼ》りけるに、車中《しやちゆう》片岡直温《かたをかちよくをん》氏《し》が嫂《あによめ》某女《ぼうぢよ》と同行《どうかう》せられしに逢ひ、同女が嬰児《えいじ》を懐《ふところ》に抱きて愛撫《あいぶ》一方《ひとかた》ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫《ふびん》さ、探《さぐ》りなれたる母の乳房に離れて、俄《には》かに牛乳を与へらるゝさへあるに、哺乳器の哺《ふく》みがたくて、今頃は如何《いか》に泣き悲しみてやあらん、汝《なれ》が恋ふる乳房はこゝに在るものを、そも一秒時毎に、汝《なれ》と遠ざかりまさるなりなど、吾れながら日頃の雄々しき心は失《う》
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