一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾《しょう》の発意《ほつい》にて山本憲《やまもとけん》氏に議《はか》り、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾《ばいせいしょじゅく》の分室と称しぬ。それより妾は俄《にわか》に世話女房気取りとなり、一人《いちにん》の同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊《じすい》に慣れし壮士をして、代る代る炊事を執《と》らしめ、表面は読書に余念なきが如くに装《よそお》わせつつ、同志|窃《ひそ》かに此処《ここ》に集《つど》いては第二の計画を建て、磯山|逃奔《とうほん》すとも争《いか》で志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調《ととの》えて出立の準備をなすに如《し》かずと、日夜|肝胆《かんたん》を砕《くだ》くこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭《けんえん》の状あるを察しければ、ある時は珍しき肴《さかな》を携《たずさ》えて、彼らを訪《と》い、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味《あじ》わい、あるいは味噌漉《みそこし》を提《さ》げて豆腐《とうふ》屋に通《かよ》い、またある時は米屋の借金のいい訳《わけ》は婦人に限るなど、唆《そその》かされて詫《わ》びに行き、存外|口籠《くちごも》りて赤面したる事もあり。凡《およ》そ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾《ばいせいしょじゅく》の書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力|与《あずか》りて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能《よ》くその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦《きゅうく》の何物たるを知らざらしめば、十九《つづ》や二十歳《はたち》の身の、如何《いか》でかかる細事《さいじ》に心留むべきぞ、幸いにして貧窶《ひんる》の中《うち》に成長《ひととな》り、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟《とっさ》の間《かん》には出でたるなれ。己れ炊事を親《みずか》らするの覚悟なくば彼《か》の豪壮なる壮士の輩《はい》のいかで賤業《せんぎょう》を諾《うべな》わん、私利私欲を棄《す》ててこそ、鬼神《きしん》をも服従せしむべきなりけれ。妾《しょう》をして常にこの心を失わざらしめば、不束《ふつつか》ながらも大きなる過失は、なかりしならんに、志《こころざし》薄く行い弱くして、竜頭蛇尾《りゅうとうだび》に終りたること、わが身ながら腑甲斐《ふがい》なくて、口惜《くちお》しさの限り知られず。

 六 遣《や》る瀬《せ》なき思い

 右の如き、窮厄《きゅうやく》におりながら、いわゆる喉元《のどもと》過ぎて、熱さを忘るるの慣《なら》い、憂《う》たてや血気の壮士は言うも更《さら》なり、重井《おもい》、葉石《はいし》、新井《あらい》、稲垣《いながき》の諸氏までも、この艱難《かんなん》を余所《よそ》にして金が調《ととの》えりといいては青楼《せいろう》に登り絃妓《げんぎ》を擁《よう》しぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端座《たんざ》し、過去を思い、現在を慮《おもんばか》りて、深き憂いに沈み、婦女の身の最《い》とど果敢《はか》なきを感じて、つまらぬ愚痴《ぐち》に同志を恨《うら》むの念も起りたりしが、復《ま》た思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには非《あら》ず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫折《ざせつ》すべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても遣《や》る瀬《せ》なき思いに悶《もだ》えて、ある時|詠《よ》み出でし腰折《こしおれ》一首《いっしゅ》
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かくまでに濁《にご》るもうしや飛鳥川《あすかがわ》
     そも源《みなもと》をただせ汲《く》む人
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 七 女乞食

 愁《うれ》いの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障子《しょうじ》を打ち開き、階下に集《つど》える塵取船《ちりとりぶね》を眺《なが》めたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、頻《しき》りに塵《ちり》の中より紙屑《かみくず》を拾い出し、これをば籠《かご》に入れ居たり。背なる小供は母の背に屈《かが》まりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒息《ちっそく》せんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ体《てい》にて、なお余念なく漁《あさ》り尽し、果ては魚《うお》の腹腸《はらわた》、鳥の臓腑様《ぞうふよう》の物など拾い取りてこれを洗い、また料理する様《さま》のいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には優《まさ》るべし、思えば気の毒の母よ子よと惻隠《そくいん》の心|禁《とど》めがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重錘《おもり》をつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より降《ふ》り来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた暫《しば》し躊躇《ためら》いたり。妾は重《かさ》ねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安堵《あんど》したるらしく、幾度《いくたび》か押し戴《いただ》くさまの見るに堪えず、障子をしめて中《うち》に入り、暫《しばら》くして外出せんとしたるに、宿の主婦は訝《いぶか》りつつ、「あんたはんじゃおまへんか先刻《さっき》女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は首肯《うなず》きたるに、「いんまさき小供を負《お》ぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御散財《ごさんざい》でおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清々《すかすが》しさを感ぜしものから、譬《たと》えば眼《まなこ》を過ぐる雲煙《うんえん》の、再び思いも浮べざりしに、図《はか》らずも他日《たじつ》この女乞食と、思い儲《もう》けぬ処に邂逅《であ》いて、小説らしき一場《いちじょう》の物語とは成りたるよ。ついでなれば記《しる》し付くべし。

 八 一場《いちじょう》の悲劇

 その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に幽《ゆう》せらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝告者《でんこくしゃ》即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監倉《かんそう》を司《つかさど》ることとなりぬ。依《よ》りて初犯者をば改化|遷善《せんぜん》の道に赴《おもむ》かしむるよう誘導の労を執《と》り、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と敬《うやま》われつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その間《あいだ》随分種々の罪人に遇《あ》いしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看板《かんばん》を附けおらざりせば、誰《たれ》かはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に大《だい》なる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大道《だいどう》を濶歩《かっぽ》する者も多かるに、大《だい》を遺《わす》れて小《しょう》を拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》なりき。穴賢《あなかしこ》、この感情は、一度《ひとたび》入獄の苦を嘗《な》めし人ならでは語るに足らず、語るも耳を掩《おお》わんのみ。かくて妾《しょう》は世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無頼《ぶらい》の婦女子と室を同じうし、起臥《きが》飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに睦《むつ》み合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑婆《しゃば》における学校教師と子弟との情は物かは、倶《とも》にこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、能《よ》く相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に自《おの》ずからの春ありて、靄然《あいぜん》たる和気《わき》の立ち籠《こ》めし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監倉《かんそう》の鍵《かぎ》を鳴らして来り、それ新入《しんにゅう》があるぞといいつつ、一人の垢染《あかじ》みたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何故《なにゆえ》とは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様《さま》の厳《いか》めしう、怖《おそ》ろしきに心|怯《おび》えて、かつはこれよりの苦を偲《しの》び出でしにやあらんなど、大方《おおかた》に推《お》し測《はか》りて、心|私《ひそ》かに同情の涙を湛《たた》えしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御覚《おんおぼ》えなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御顔《おんかお》も能《よ》く覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因縁《いんねん》にてか、再びかかる処にて御目《おんめ》にはかかりたるぞ、これも良人《おっと》や小供の引き合せにて私の罪を悔《く》いさせ、あなた様に先年の御礼《おんれい》を申し上げよとの事ならん。あなた様が憐《あわ》れみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡《ほうそう》にかかり、一週間前に世を去りぬ、今日《こんにち》はその一七日《ひとなのか》なれば線香なりと手向《たむ》けやらんと、その病《やまい》の伝染して顔もまだこの通りの様《さま》ながら紙屑《かみくず》拾いに出《い》でたるに、病後の身の遠くへは得《え》も行かれず、籠《かご》の物も殖《ふ》えざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束《おぼつか》なしと、悶《もだ》え苦しみつつふと見れば、人気《ひとけ》なき処に着物|乾《ほ》したる家あり。背に腹は換《か》えられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、忽《たちま》ち覿面《てきめん》の天罰《てんばつ》受けて、かくも見苦しき有様となり、御目《おんめ》にかかりしことの恥かしさよと、生体《しょうたい》なきまで泣き沈み、御恵《おんめぐ》みに与《あずか》りし時は、病床《びょうしょう》にありし良人《おっと》へも委細を語りて、これも天の御加護《おかご》ならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も買《こ》うて遣《や》りぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の病《やまい》はなお重《おも》り行きて、敢《あ》えなき最期《さいご》、弱る心を励《はげ》まして、私は小供|対手《あいて》にやはり紙屑拾いをばその日の業《わざ》となしたりしに、天道《てんどう》さまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、露《つゆ》いささか悪《あ》しき道には踏み込まざりし私《わたくし》母子《おやこ》に病を降《くだ》して、遂《つい》に最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ方《かた》ぞなど、果《はて》しもなき涙に掻《か》き暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、他《た》の囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人《おっと》や子供の菩提《ぼだい》を弔《とむら》い給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑婆《しゃば》に出でて再び餓《うえ》に泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお側《そば》にてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち歎《かこ》つなりき。
 実《げ》にや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は能《よ》く罪を罰するを知れり、乞い
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