もゝはがき
斎藤緑雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鷸《しぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|隅《ぐう》
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(例)[#地から1字上げ](以上十一月廿一日)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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≪明治三十六年≫
○
鷸《しぎ》にありては百羽掻也《もゝはがきなり》、僕にありては百端書也《もゝはがきなり》月《つき》や残《のこ》んの寝覚《ねざ》めの空《そら》老《おゆ》れば人の洒落《しやれ》もさびしきものと存候《ぞんじさふらふ》、僕《ぼく》昨今《さくこん》の境遇《きやうぐう》にては、御加勢《ごかせい》と申す程の事もなりかね候《さふら》へども、この命題《めいだい》の下《もと》に見るにまかせ聞くにまかせ、且《かつ》は思ふにまかせて過現来《くわげんらい》を問はず、われぞ数《かず》かくの歌の如《ごと》く其時々《そのとき/″\》の筆次第《ふでしだい》に郵便《いうびん》はがきを以《もつ》て申上候間《まうしあげさふらふあひだ》願《ねが》はくは其儘《そのまゝ》を紙面《しめん》の一|隅《ぐう》に御列《おんなら》べ置《おき》被下度候《くだされたくさふらふ》、田《た》に棲《す》むもの、野に棲《す》むもの、鷸《しぎ》は四十八|品《ひん》と称し候《そろ》とかや、僕のも豈夫《あにそ》れ調《てう》あり、御坐《ござ》います調《てう》あり、愚痴《ぐち》ありのろけあり花ならば色々《いろ/\》芥《あくた》ならば様々《さま/″\》、種類《しゆるゐ》を何《なに》と初めより一定不致候《いつていいたさずさふらう》十日に一通の事もあるべく一日に十通の事もあるべし、かき鳴らすてふ羽音《はおと》繁《しげ》きか、端書《はがき》繁《しげ》きか之《これ》を以《もつ》て僕が健康の計量器《けいりやうき》とも為《な》し被下度候《くだされたくそろ》勿々《さう/\》(十三日)
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今日《こんにち》不図《ふと》鉄道馬車《てつだうばしや》の窓より浅草《あさくさ》なる松田《まつだ》の絵|看板《かんばん》を瞥見致候《べつけんいたしそろ》。ドーダ五十|銭《せん》でこんなに腹が張つた云々《うん/\》野性《やせい》は遺憾《ゐかん》なく暴露《ばうろ》せられたる事に候《そろ》。其建物《そのたてもの》をいへば松田《まつだ》は寿仙《じゆせん》の跡也《あとなり》常磐《ときは》は萬梅《まんばい》の跡也《あとなり》今この両家《りやうけ》は御《ご》一|人《にん》前《まへ》四十五銭と呼び、五十銭と呼びて、ペンキ塗《ぬり》競争《きやうそう》硝子張《がらすはり》競争《きやうそう》軒《のき》ランプ競争《きやうそう》に火花《ひばな》を散《ち》らし居《を》り候由《そろよし》に候《そろ》。見識《けんしき》と迂闊《うくわつ》は同根也《どうこんなり》、源平《げんぺい》の桃也《もゝなり》馬鹿《ばか》のする事なり。文明《ぶんめい》は銭《ぜに》のかゝらぬもの、腹のふくるゝものを求めて止《や》まざる事と相見《あひみ》え申候《まうしそろ》。(十四日)
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平民新聞《へいみんしんぶん》の創刊《そうかん》に賀《が》すべきは其門前《そのもんぜん》よりも其紙上《そのしゞやう》に酸漿提灯《ほうづきてうちん》なき事なり各国々旗《かくこく/\き》なき事なり市中音楽隊《しちうおんがくたい》なき事なり、即《すなは》ち一《いつ》の請負《》文字《うけおひもんじ》、損料文字《そんれうもんじ》をとゞめざる事なり。ト僕ガ言つてはヤツパリ広目屋臭《ひろめやくさ》い、追《おい》て悪言《あくげん》を呈《てい》するこれは前駆《ぜんく》さ、齷齪《あくせく》するばかりが平民《へいみん》の能でもないから、今一段の風流《ふうりう》気《き》を加味《かみ》したまへ但《たゞ》し風流《ふうりう》とは墨斗《やたて》、短冊《たんざく》瓢箪《へうたん》の謂《いひ》にあらず(十五日)
何《どれ》も是《こ》れも俊秀《しゆんしう》なら、俊秀《しゆんしう》は一山《ひとやま》百|文《もん》だとも言得《いひえ》られる。さて其《その》俊秀《しゆんしう》なる当代《たうだい》の小説家《せうせつか》が普通|日用《にちよう》の語をさへ知らぬ事は、ヒイキたる僕《ぼく》の笑止《せうし》とするよりも、残念とする所だが今ではこれが新聞記者にも及んだらしい。けふの萬朝報《よろづてうはう》に悪銭《あくせん》に詰まるとあるのは、悪の性質を収得《しうとく》と見ず、消費と見たので記者は悪銭《あくせん》身に附《つ》かずといふのと、悪所《あくしよ》の金には詰まるが習ひといふのと、此《この》二|箇《こ》の俗諺《ぞくげん》を混同したものだらう。かゝる誤りは萬朝報《よろづてうはう》に最も少《すくな》かつたのだが、先頃《さきごろ》も外《ほか》ならぬ言論欄に辻待《つぢまち》の車夫《しやふ》一切《いつせつ》を朧朧《もうろう》と称《せう》するなど、大分《だいぶ》耳目《じもく》に遠いのが現《あら》はれて来た。これでは国語調査会《こくごてうさくわい》が小説家や新聞記者を度外視《どぐわしし》するのも無理はないと思ふ。萬朝報《よろづてうはう》に限らず当分《たうぶん》此類《このるゐ》のが眼《め》に触れたら退屈《たいくつ》よけに拾《ひろ》ひ上げて御覧《ごらん》に供《きよう》さう。(十五日)
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日向恋《ひなたこひ》しく河岸《かし》へ出ますと丁度《ちやうど》其処《そこ》へ鰻捕《うなぎと》る舟が来て居《い》ました。誰《たれ》もよくいふ口ですが気の長い訳《わけ》さね 或一人《あるひとり》が嘲笑《あざわら》ひますと又《また》、或一人《あるひとり》がさうでねえ、あれで一日《いちにち》何両《なんりやう》といふものになる事がある俺《わつち》が家《うち》の傍《そば》の鰻捺《うなぎか》ぎは妾《めかけ》を置いて居《ゐ》ますぜと、ジロリと此方《こなた》の頭の先から足の先|迄《まで》見下《みおろ》しましたこのやうな問答《もんだう》は行水《ゆくみづ》の流れ絶《た》えず昔《むかし》から此河岸《このかし》に繰《く》り返《かへ》されるのですがたゞ其時《そのとき》私《わたくし》の面白いと思ひましたのは、見下《みおろ》した人も見下《みおろ》された人も、殆《ほとん》ど同じ態度に近寄りまして更《あらた》めて感《かん》に入《い》つた一呼吸《いつこきう》の裡《うち》にどちらもが妾《めかけ》のありさうにも有得《ありえ》さうにもないのゝ明《あきら》かな事でした即《すなは》ち妾《めかけ》を置きますのを、こよなき驕奢《けうしや》こよなき快楽としますやうな色が、其《その》どちらもの顔一|杯《ぱい》に西日《にしび》と共に照《てり》渡つた事でした。(十六日)
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二の酉也《とりなり》、上天気也《じやうてんきなり》、大当《おほあた》り也《なり》と人の語り行《ゆ》くが聞《きこ》え申候《まうしそろ》。看上《みあ》ぐるばかりの大熊手《おほくまで》を担《かつ》ぎて、例《れい》の革羽織《かはばおり》の両国橋《りやうごくばし》の中央に差懸《さしかゝ》り候処《そろところ》一葬儀《いちさうぎ》の行列《ぎやうれつ》前方《ぜんほう》より来《きた》り候《そろ》を避《さ》くるに由《よし》なく忽《たちまち》ち之《これ》を河中《かちう》に投棄《なげす》て、買直《かいなほ》しだ/\と引返《ひきかへ》し候《そろ》を小生《せうせい》の目撃致候《もくげきいたしそろ》は、早《はや》十四五|年《ねん》も前の昼の事に候《そろ》。けふ此頃《このごろ》の酉《とり》の市《まち》に参《まゐ》りて、エンギを申候《まうじそろ》ものにこの意義《いぎ》ありや、この愛敬《あいきやう》ありや。年季職人《ねんきしよくにん》の隊《たい》を組みて夜《よ》を喧鬨《けうがう》の為《た》めに蟻集《ぎしう》するに過ぎずとか申せば、多分《たぶん》斯《かく》の如《ごと》き壮快《さうくわい》なる滑稽《こつけい》は復《また》と見る能《あた》はざるべしと小生《せうせい》は存候《ぞんじそろ》(一七日)
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往還《わうくわん》よりすこし引入《ひきい》りたる路《みち》の奥《おく》に似《に》つかぬ幟《のぼり》の樹《た》てられたるを何かと問へば、酉《とり》の市《まち》なりといふ。行《ゆ》きて見るに稲荷《いなり》の祠《ほこら》なり。此地《こゝ》には妓楼《ぎろう》がありますでな、酉《とり》の無いのも異《い》なものぢやといふ事でと、神酒《みき》の番《ばん》するらしきが何《なに》ゆゑかあまたゝび顔撫《かほな》でながら、今日限《こんにちかぎ》り此祠《このほこら》を借《か》りましたぢや。これも六七年前。下総《しもふさ》は市川《いちかは》、中山《なかやま》、船橋辺《ふなばしへん》の郊行《かう/\》の興深《きようふか》からず、秋風《あきかぜ》の嚏《くさめ》となるを覚《おぼ》えたる時の事に候《そろ》。(十七日)
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人目《ひとめ》に附易《つきやす》き天井裏《てんじやうゝら》に掲《かゝ》げたる熊手《くまで》によりて、一|年《ねん》若干《そくばく》の福利《ふくり》を掻《か》き招《まね》き得《う》べしとせば斃《たふ》せ/\の数《かず》ある呪《のろ》ひの今日《こんにち》に於《おい》て、そは余《あま》りに公明《こうめい》に失《しつ》したるものにあらずや
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銀座の大通《おほどう》りに空家《あきや》を見るは、帝都《ていと》の体面《たいめん》に関すと被説候人有之候《とかれそろひとこれありそろ》へども、これは今更《いまさら》の事に候《そろ》はず、東京《とうけふ》闢《ひら》けて銀座の大通《おほどほ》りの如《ごと》く、転変《てんぺん》の激《はげし》きは莫《な》しと某老人《ぼうらうじん》の申候《まうしそろ》其訳《そのわけ》は外充内空《ぐわいじうないくう》の商略《せふりやく》にたのみて、成敗《せいはい》の一挙《いつきよ》に決《けつ》せんと欲《ほつ》し候《そろ》人の、其家構《そのいへかま》へに於《おい》て、町構《まちかま》へに於《おい》て、同処《どうしよ》を利《り》と致候《いたしそろ》よりの事《こと》にて、今も店頭《てんとう》に堆《うつたか》きは資産《しさん》に非《あら》ず、負債《ふさい》なるが多きを占《し》むるよしの結果に候《そろ》、
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通抜《とほりぬけ》無用の札を路次口《ろじぐち》へ貼《は》つて置くのは、通抜《とほりぬけ》らるゝ事を表示《へうし》するやうなものだと言つた人があるが僕も先刻《せんこく》余儀《よぎ》なき用事で或抜裏《あるぬけうら》へ一足《ひとあし》這入《はい》るとすぐに妙《めう》なる二つの声を聞いた亭主《ていし》曰《いわ》く、いつまで饒舌《しやべ》つて居《い》やがるのだ、井戸端《ゐどばた》は米を磨《と》ぐ所で、油を売る所ぢやねえぞと。女房《にようぼ》曰《いわ》く、御大層《ごたいそう》な事をお言ひでないうちのお米が井戸端《ゐどばた》へ持つて出られるかえ其儘《そのまゝ》鳴《な》りの鎮《しづま》つたのは、辛辣《しんらつ》な後者の勝《かち》に帰したのだらう(十八日)
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鉄馬創業《てつばそうげふ》の際《さい》、大通《おほどほ》りの営業別《えいげふべつ》を調《しら》べたるに、新橋浅草間《しんばしあさくさかん》に湯屋《ゆや》は一軒《いつけん》なりしと、旧《ふる》けれどこれも其老人《そのらうじん》の話也《はなしなり》。勢《いきほひ》の自然《しぜん》と言つては堅過《かたす》ぎるが、成程《なるほど》江戸時代《えどじだい》から考《かんが》へて見ても、湯屋《ゆや》と与太郎《よたらう》とは横町《よこちやう》の方《ほう》が語呂《ごろ》がいゝ。(十八日)
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駆落《かけお》ちたりと申す語《ご》、今日《こんにち》の国民新聞《こくみんしんぶん》に見え申候《まうしそろ》茶漬《チヤヅ》る的《てき》筆法《ひつぱふ》の脱化《だくわ》とも申すべく候《
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