於て、これを空間的に説明して「従是西方十万億仏土有世界名曰極楽」と言ったのである。
「正義の国」は一名「極楽」であるのだろう。そしてまたキリスト教にいうところ「天堂」でもあるのだろう。
原始的の宗教はこの極楽または天堂を来世に、人の死後に存在するものと信じていた。だが、誰も死んで、これを見て来て、そして生きかえって、その状態を語ったものがない。近代的科学は、これを証明することができない。死後にも魂が、即ち人格がなお存在するだろうことは、天文学者のフランマリオンも信じているが、これらの信仰はこれを衆生や、民衆に強いることは出来ない。だから、近代的の宗教はこれを人間の将来に於て実現するものと説明する。こう説明した方が、兎も角も分り易い。
私たちは今、不正義の国に住んでいるけれども人間の努力如何で、何時かは、尤もそれは天文学的数字の何時かに、存在せしめ得ると説明すれば私たちは兎も角も、これを信じ得る。事実地球上には、何万年何億年待ってもこうした完全な状態は存在しないかもしれないけれども、「与うるに条件を以てすれば」存在しないとは保証されない。理論的には、そう信ぜられる。
だから、この「条件」が必要である。と同時にこの条件は突如として、天から降り、地から湧くものではない。皆人間の所作であらねばならない。しかも、この所作は進化する。進化の法則に従って漸化する。この進化、漸化の或段階では、この所作は人間に不幸を持ち来すこともあるけれども、それは最終のものではないということに気注くならば、悲観する必要はない。だが、この場合、不幸を必然的のものとして諦めてはならない。この不幸を幸福に転ずべく努力しなければならない。こうした努力があってこそ、人生に意義もあり、価値もある。
この道を通って行けば、奈落の底に落ちるということに気注いたならば、道を転ぜねばならない。転ずることができなかったならば、新に道を切り開くべく努力しなければならない。これを切り開くことができなければ、一足飛びに、例えば飛行機に乗って、この奈落を飛び越える必要も起って来る。
歴史の必然性というものはない。歴史は要するに人間の所作の結果である。人間の努力の記録である。人間がその自由意志を以て、善かれ、悪かれ書き綴ったものである。現にかくして私たちはこれを書いて来た。その自由意志を以て、環境を征服し得た人間と、民
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