者が考えまた行うところのものを報告しなければならない。彼は科学的権威者が彼等みずからの研究分派の事実については正しいことを仮定しなければならない。彼は活力論者が如何に有名なる経験的生物学者であっても、彼等が名誉をかち得た実験室内では、機械学者として厳重にこれを観察しなければならない。文明はこれを実行する者の全注意を要求する科学的新聞の確立を必要とする。本来の科学的新聞記者は全力を挙げてその技術を行わねばならない。然るとき社会は永続的なる非個人的説明から、現在の社会問題を解決する必要なる態度を学び、そのユーモアまたは精神を粉飾せんとした離ればなれの書を嘲笑するに至るだろう。

 宇宙を語り、そしてこれを伝えるには、固よりかかる科学的新聞記者たることを必要とする。だが、世俗的なる普通の新聞記者も、将来に於ては、これと同様科学的であらねばならない。現在の枢軸国家及び民主主義的国家に於ける新聞を見るに、いずれもその民族または国家の特殊性に自己陶酔的なる、離ればなれの御託を述べているに過ぎず、世界的なる、また人類全体の安寧幸福に関する一般的の抱負をこれから聞くことを得ない。事実を事実として報告しないほどだから、文明の雰囲気を語らんとするものは、一人もいない。特に我国の新聞記者に至っては、科学的知識に全然無智であるためか、神秘主義に終始して、国難を救わんとしている。ハイゼンベルクやディラークの如き革命的にして、困苦な、輝かしい記者は一人もいない。唯非創造的なる政府及び民衆を刺戟した偽の成長を見て、これに満足せんとしている。
 われらは固より日に新にして、日に日にまた新ならんとしつつある今日の社会に於て、素朴なる昔時の新聞記者たらんことを欲せず、またそれが許されないことを知る。だが、その「無冠の帝王」説を回顧するときは、記者自身大なる誇を感ぜざるを得ない。ヴィクトル・ユーゴの「剣筆を殺さずてば、筆剣を殺さん」と言った語に、若い血を躍らせる。かかる時代は再現しないだろうけれども、昔恋しさの感に堪えない。降って「社会の反射鏡」説に至り、新聞はここに一の技術となったけれども、この機能を保存すればわれらはなお新聞記者を尊重する。だが、この頃の新聞に至っては、徹底的でなければなるべく多く社会を反射せしめず、というよりも、全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論を代表せずして、政府の提灯を持っているだけである。そして彼等は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている。
 今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已むを得ずなおこれを購読しつつある。偶H・G・ウェルズの如き、公民としてかかる新聞を購読するは義務に反するが故に、そのボイコットを示唆するものがあっても、他にこれに代わるものがなければ、不用の物も有用化されつつあるのが、今日のだらしない状態である。
 将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい。ローゼンベルヒの「二十世紀の神話」こうした空虚の思想に魅せられて、昭和の科学的時代を神秘化せんとするに至っては、沙汰の限である。神秘主義は理解し能わざる者の産物であり、理会の代用品であり哲学のマルガリンである。いずれにしても、本物ではなく贋物である。
 将来の(現在でも決して早くはない)新聞記者は創造的作者であらねばならない。六十歳の、またこれよりも、もっと年取ったものの言に聴いて、神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか。[#地から1字上げ](昭和十六年九月)



底本:「畜生道の地球」中公文庫、中央公論社
   1989(平成元)年10月10日発行
底本の親本:「畜生道の地球」三啓社
   1952(昭和27)年7月
入力:門田裕志
校正:Juki
2005年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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