午、日はうらゝかに輝いて、庭上の草叢には虫が鳴いて居る。
 翁は起きると言ふ。僕は静かに抱き起したまゝ殆ど身も触るばかり背後に坐つて守つて居た。夫人の勝子六十何歳、団扇を取つて前へ廻つて、ヂツと良人の面を見つめて軽く扇いで居る。
 翁は端然と大胡坐をかいて、頭を上げて、全身の力を注いで、強い呼吸を始めた。五回六回七回――十回ばかりと思ふ時、「ウーン」と一声長く響いたまゝ――
 瞬きもせずに見つめて居た勝子夫人が、
『お仕舞になりました』
と、しとやかに告げた。
 翁が所持の遺品と言うては、菅の小笠に頭陀袋のみ。翌晩遺骸の前に親戚の人達が円く坐つて、頭陀袋の紐を解いた。
 小形の新約全書。日記帳。鼻紙少々。
 僕は取り敢へず日記帳を押し戴いて、先づ絶筆の頁を開けて見た。
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「八月二日。悪魔を退くる力なきは、其身も亦悪魔なればなり。已に業に其身悪魔にして悪魔を退けんは難し。茲に於てか懺悔洗礼を要す」
[#ここで字下げ終わり]
 享年七十又三。
[#地から1字上げ]〔『中央公論』昭八・九〕



底本:「近代日本思想大系 10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和
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