翁の目に映つたかと想像することは、一つの興味深き問題だ。若し議会に於ける翁の演説を読んだ人は、翁の性格面貌を胸裡に描くことが出来る。僕は今、基督を見た後の田中翁を説くに当り、それを一層深く君に理解して貰ひたい為めに、翁の素性素質に就て、尚ほ少しく話して見たい。
 翁の故郷は下野安蘇郡の小中と云ふ所で、祖父以来の名主の家であつた。翁の自叙伝の中に幼少時代の事が書いてある。
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「予が幼時の剛情は、母に心配をかけしこと幾何ぞ。五歳の時、或雨の夜の事なりき。予、奇怪なる人形の顔を描きて、傲顔に下僕に示せしに、彼冷然として『余りお上手ではありません』と笑へり。己れ不埒の奴、然らば汝上手に書き見せよと、筆紙を取りて迫れば、下僕深く己が失礼を謝して、赦されんことを乞ふも、予更に聴《ゆ》るさず、剛情殆ど度に過ぎたり。今まで黙視し居たる母は、此時頻りに予を宥めたれど、予頑として之を用ゐざりしかば、終に戸外に逐出し、戦慄泣き叫ぶ予をして、夜雨に曝さしむること二時間余に及べり。母の刑罰、真底心を刺して、誠に悔悟の念を起さしめぬ。思ふに予をして永く下虐の念を断たしめたるもの、誠に慈母薫陶
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