まつた。
三十三年二月十三日、議会へ請願の最後の覚悟を決めた被害民は、渡良瀬村の雲龍寺を出発し、館林を過ぎて、利根川まで進んだ。政府は既に利根の船橋を撤し、憲兵警官を両岸に配置して追ひ散らし、百余名を捕縛して、「兇徒嘯集」の罪名の下に、群馬の監獄へ送つてしまつた。
僕はこれ迄、議会を舞台に鉱毒問題を語つて来た。「鉱毒地」に就ては、未だ何も君に言うて居ない。僕は君に鉱毒地を見て欲しいのだ。こゝに良い物がある。鉱毒甚地と言はれた吾妻村下羽田の、庭田源八と云ふ老農が、自ら筆を執つて有りのまゝを直写したもので、僕はそれを「渡良瀬の詩」と呼んで居る。全部読むと長過ぎるから、四季に渡つて拾ひ読みにする。
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「立春正月の節。雪が一尺以上も降りますと、まだ寒うございますから、なか/\解けません。子供などがその雪を二坪ぐらゐ片付けまして、餌を撒き置きますると、二日も三日も餓ゑて居る小鳥が参ります。其所へ青竹弓でブツハキと云ふをこしらへ、餌をあさるを待ち受け、急に糸を引きますると、矢がはづれ青竹弓がはづれまして、雀や鳩が一度に三羽も五羽も取れました。また雪を除き餌をまきたる所へ麦篩を斜にかぶせ、細き竹に糸を付け、小鳥が餌にうゑて降りるを見て糸を引きて取る。一羽二羽は取れ申候。近年鉱毒被害の為め小鳥少なく、二十歳以下の者この例を知るものなし。正月の節よりも十日もたちまして雪が七寸乃至一尺も降りまして、寒気は左程ゆるみましたとも見えませぬけれど、最早陽気でございまして、翌る日晴天になりますと、雪は八九時十時頃より段々解けまする。田圃でも日向のよい箇所は、所々土が雪より現はれます陽炎《かげろふ》が立ちまする有様、陽気が土中より登りて湯気の如くに立ちのぼる。然るに鉱毒被害深さ八九寸より三尺に渡り候、田圃には更に陽気の立ち上ぼるを見ず。」
「清明三月の節になりますると、藪の中や林の縁に、野菊や野芹や蕗《ふき》や三ツ葉うど抔《など》が多くありました。川端には、くこ抔と申すが多くありました。三月の節句に草餅を舂《つ》きまするに、蓬《よもぎ》が多くありまして、摘みましたものでござりますが、只今では、鉱毒地には蓬が少なき故、利根川堤や山の手へ行つて摘んで参ります。近年は無拠《よんどころなく》、蓬の代りに青粉と申すを買ひまして、舂きまする。桜の花の盛りをマルタ魚の最中とし、梨の花盛りをサイのしゆんとして、渡良瀬川へ川幅一杯に網を張り通し、夕暮五時頃より、翌朝六七時までに、魚が百貫以上も取れました。また闇の夜などに、川や沼に大高浪押し来り、小胆の人は大蛇かと驚きましたが、獺《かはうそ》が多く子を連れて、游ぎあるくのでござりました。渡良瀬川、淵と名のつきましたところは、平時にも水が二丈や三丈はありました。鯉など年中はねて居りました。――只今では毒鉱土砂沈澱し、河底埋塞の為め、平水の節は、名のつきました所も八尺か九尺しかありません。浅くなりました故、魚は居りません。」
「小満四月、中の節。山林田圃などには、蛇が多く居りました。蛇の種類も色々ありました。山かゞしと云ふが、あの縞蛇と云ふがあり、地もぐりと云ふがあり、青大将と云ふがあり、又かなめと云ふがありましたが、只今鉱毒地には更に御座なく候と申しても宜敷位でござります。また畑の境界などには、うつ木と申しまする樹を仕立つ。此木は根が格別ふえませぬ故、境木などに至極宜敷ござります。此木に卯の花と申す真白な花が咲き乱れました。此花の頃は時鳥《ほとゝぎす》があちこち啼いて、飛びちがひましたものでござりますが、只今では、虫や蜘蛛が鉱毒の為め居りませぬ故か、一と声も聞きませぬ。卯の花も咲きませぬ。蟷螂《かまきり》や、けら、百足《むかで》、蜂、蜘蛛等が夥《おびたゞ》しく居りました。土蜘蛛と申しまして木の根や垣根などに巣の袋をかけて置きましたが、鉱毒地には、只今一切居りませぬ。」
「芒種五月の節に相成りますると、野にも川にも螢が夥しく居りまして子守や子供衆は日の暮を待ち兼ねて螢狩りに行きましたものでござりますが、鉱毒の為め少しも見えませぬ。此節に到りますると、大麦は丈五尺位ありました。並みの馬につけますには、余程高く付けませぬでは、穂が引きずりました。一反で三石四五升位とれました。小麦も丈が四尺余もありました。一反で二石五斗位は取れました。菜種も丈が六尺以上ありました。一反で一石八九升まで取れました。朝鮮菜と申しまするは、丈が七尺以上ありました。一反二石以上とれました。辛子は丈が八尺より九尺位ありました。一反で一石以上とれました。下野国足利郡吾妻村大字小羽田は、関東にても有名の肥土でありましたが、只今は鉱毒被害の為め、何も生えませぬ。」
「処暑七月の中の節。土用明けてから十日もたちますると渡良瀬川、朝日出づる頃よりし
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