山県有朋、黒田清隆、西郷従道、大山巌、井上馨六名御前会議。
十二日、伊藤内閣成立。伊藤と板垣との間に黙契あり、三月行はれた臨時総選挙には自由党到る処に有利の成績を挙げた。
一、選挙の結果百余の議員を得た自由党は、この勢力を楯にして党首板垣の内務大臣を要求した。大蔵大臣井上馨絶対反対、伊藤首相進退に窮す。
四月十六日、自由党代議士会は、政党を基礎とせざるを理由として伊藤内閣反対を決議。
五月十四日、議会召集。
六月十日、政府唯一の財政策地租増徴案は、自由進歩両党提携の下に、二十七対二百四十七の最大多数にて否決。議会解散。
翌十一日、自由進歩両党、各自評議員会に於て、合同を決議。
十六日、新政党同志懇親会。大隈板垣来会。
二十二日、両党合同の「憲政党」、新富座に結党式を挙ぐ。
一、二十四日、伊藤、山県、黒田、井上、西郷、大山、薩長両閥の元老、御前会議。
世上、伊藤は憲政党に対する新政党創立の必要を主張して、山県と衝突。伊藤が後継内閣の為め大隈板垣を推薦したので、山県と激論に及んだなど流説紛々。
二十五日、伊藤挂冠、且つ勲等爵位一切奉還の表章を上《たてま》つる。
同日、重ねて御前会議、而も諸老、一人の自ら難局に当るものなし。
二十七日、大隈板垣へ組閣の大命下る。三十日親任式。
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総理大臣兼外務大臣 大隈重信(旧進歩)
内務大臣 板垣退助(旧自由)
農商務大臣 大石正巳(旧進歩)
文部大臣 尾崎行雄(旧進歩)
大蔵大臣 松田正久(旧自由)
司法大臣 大東義徹(旧進歩)
逓信大臣 林 有造(旧自由)
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こゝに特筆大書すべき○○○○は、この政党内閣の始めて樹立されたと同時に、○○、○○の○○と云ふものを、全く政局の範囲外に特立させて、手の届かないやうにして仕舞つたことだ。
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一、憲政党内閣|僅《わづか》に成立を告ぐるや、内部の軋轢《あつれき》は直に起つて、日に益々劇しくなつた。
一、八月、尾崎文相が大日本教育会にて演説の際、彼は当世の金力万能の趨勢を極力非難し、中に「日本に共和政治を行ふ気遣は無いが、仮りに共和政治と云ふ夢を見たとせよ、三井三菱は必ず大統領の候補者であるであらう」と云ふ一語を吐いた。政党内閣の間隙を窺つて居た官僚派は、直ちにこの一語を捉へて「尾崎文相の共和演説」と宣伝し、自由派の輩まで盛に唱和して内閣一角の崩潰を企てた。
一、十月二十日、侍従長徳大寺実則の板垣訪問。二十一日板垣参内。二十二日侍従職幹事岩倉具定の大隈訪問。二十四日、尾崎辞職。
一、廿五日、板垣、文相候補として星亨江原素六二人を推す。大隈|容《ゆる》さず。二十六日、大隈参内して、犬養毅を推挙。
一、二十七日、犬養親任式。これに先だち板垣参内、大隈の専横を奏上。
一、二十九日、自由派の板垣松田林三相辞表。
一、三十一日、進歩派の大隈大石大東犬養四相辞表。
一、憲政党成りてより未だ五月に満たずして、争奪あり分裂あり、自由派は憲政党と号し、進歩派は憲政本党と称す。かくて政党内閣は、未だ自ら議会にも臨まずして、瓦解の醜態を暴露。
一、政党内閣自ら倒れて、十一月八日、薩長両閥の新内閣成立。山県有朋総理大臣、松方正義大蔵大臣。
然れ共衆議院に与党を有たない政府は、議会は既に昨七日召集されて居ても容易に開院式を挙げることが出来ない。十二日、板垣は山県に会見して、自由党提携の議を交渉す。往復頻繁。二十七日、臨時閣議に於て自由党提携の議を可決。山県乃ち自由党の首脳星亨を招きて宣言書を交附し、三十日、首相邸に於て茶話会を開く。
一、十二月三日、開院式始めて行はる。
一、八日、政府先づ地租増徴案を衆議院へ提出。この地租増徴案は近時政海の暗礁で、政党の反対の為めに、既に幾度も議会の解散を見た。特に地租軽減と云ふことが自由党多年の主張なので、昨日までの党議を故なく突然放擲すると云ふことは、如何にも困却だ。そこで世間へ弁明の口実の立つやうに、五年の期限を付けて賛成することにした。且つ議員の歳費八百円を二千円に増加することを暗約した。
かくて多年の難件地租増徴案は、二十日、自由党の支持の上に無事通過することが出来た。
一、明くれば三十二年二月二十八日が議会の最終日であつたが、その日になつて三月十日まで延長の詔勅が出た。かくて予ての歳費増加案が提出された。自由党内にも、さすがに自ら恥づるものが多い。そこで星はこれ等の人を安心さす為めに、従来の議院法に「議員の歳費は辞することを得ず」とあるを修正して「辞することを得」と云ふことにした。
三月六日、委員会から直
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