聴きながら、戸毎々々に廻はる。潮田さんは折々雪中に彳《たゝず》んでは、目を閉ぢて黙祷して居た。翁は堪へることが出来ず、真赤になつて叫んだ。
『田中正造が、きつと敵打ちしてあげますぞツ』
かう憤つては、大きな拳固で、霰のやうな涙を払つた。
その夜は沼辺の旅店に泊つた。潮田さんと松本さんは、昼の疲労で別室へ行つて寝てしまつた。
翁は寝床の上に端坐して深い瞑想に沈んで居る。僕も坐つたまゝ翁の容子《ようす》を見守つて居た。
行燈《あんどん》の灯がほのかに狭い室を照して、この世のさながら「無」の如き静寂。
何程の時を経たであらうか。
『政治をやつて居る間に、肝腎の人民が亡んでしまつた』
一語、煙のやうに翁の唇頭を洩れた。
かくてまた何程の時を経たであらうか。
翁は何か物に驚いたやうに、フイと顔を上げて見廻はしたが、僕が未だ起きて坐つて居たので
『や、これは/\』
と言ひざま、山のやうな体躯を、どたりと倒れるやうに横たへて、すぽりと夜具を顔までかぶつてしまつた。
僕も枕に就きはしたが、水のやうに気が澄んで、眠ることが出来なかつた。
若き友よ。
田中翁を思ふ時、僕の目には必ずこの夜の光景が浮ぶ。爾後十年の翁の新生活「人の子」田中正造の偉大な世界は、この夜の独語の奥に、芽ざして居たやうに思はれる。
[#地から2字上げ](昭和八年四月)



底本:「現代日本文學大系 9 徳冨蘆花・木下尚江集」筑摩書房
   1971(昭和46)年10月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版13刷発行
初出:「中央公論 昭和八年四月号」
   1933(昭和8)年4月
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
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