辞して、原敬が是に代つた。
翌三十五年六月二十一日午後、伊庭想太郎と云ふ剣客の為に星は市会議場に非命の最期を遂げた。
血は一切の罪を拭ふ。世論は忽ち頭を転じて、毎日新聞の詭激の言論を非難した。かくて島田三郎と云ふ名は一世の恐怖となつた。
普選論にこめたる感激
今や選挙法の改正、選挙権の拡張に伴ふて、横浜市は二人の代議士を出すことになつた。二人の議員に三人の候補者。曰く三菱の代表者加藤高明、曰く伊藤政友会総裁指名の奥田義人、及び単身孤独の島田三郎。
二月十四日、「横浜市民諸君に告ぐ」の一文を公にして、先生は戦闘を開始した。全国の視線は横浜の一点に集中した。
三月一日、選挙。投票総数二千四百何十。先生の得票一千四百何十――然らば他の一人は誰か。奥田が当選して加藤が落ちた。この時先生五十二歳。
大正九年二月十五日の衆議院で、先生丁度七十歳、普通選挙法案の演説中に
[#ここから1字下げ]
「明治の初年は如何なる人に依て改革を遂げられたかと申しますと、青年先づ活動して、壮年これに応じ、老年の人これに追随すると云ふことが、明治初年の改革の大に振うた所以であります。――明治初年の
前へ
次へ
全38ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング