唱へて貸借を無効にする。随分乱暴な仕方で、この事が非常に富む者と非常に貧しい者とを少くしました。
 この外にまた東洋のアセチツクの流儀で、富の外に人間の重んずべきものを置きました。諺に言ふ武士は食はねど高楊枝で、この一主義が富の勢力を制して居りました。これが世人の才能を富を得る一途に傾けさせずに、平均を取つて居た一原因と思ひます。」
「今後、日本は貧富の懸隔次第に甚しくなりませう。西洋が今日まで為し来たのと同じ事情を具へて居る。契約は自由であります。兼併を禦ぐ政略は勿論行はるべきでは無い。機械を採用して人力を省くことになる。今日西洋諸国が困難して居る有様に赴く道が具はつて居る。英人カルカツプは今日の有様を歎息して『欧羅巴人は政治上の民権を得たが、経済上の食客で、地面なく家もなし』と言うて居る。経済上の食客の増加するは機械の使用によつて、資本と労力とを分離させるより起ります。英国でも器械なき間は、資本と労力とは多く同一の人の手に在りました。我が今日の農家はそれに類して居ります。製造家もその通りである。この間は雇主も家族の如き関係を起すから、自然の人情、被雇者を見ること奴隷を見るやうな根性は余り起しませぬ。一たび強大なる器械を入れて数千の職工を集めれば、一つの国と同じで職工は主人の顔を見ることさへ無い。更に資本の勢力を以て機械を充分に入れゝば、一二人の財産では足りないから、会社の組織が起る。会社の組織が起れば、株主と職工と顔を合はせると云ふことは決して無い。さうなると資本と労力との競争のみで、人情の油はこの競争を緩めることは無い。この事が我国の経済社会に必ず起つて来ると思ひます。――興業上の兼併が行はれて多くの人が家来になる。この者が常に雇はれて居ればまだ良いが、決して然うは行かない。生産の競争が起れば色々制限を行ひます。少し出来過ぎて売口が遠くなれば、労役者を解雇します。賃銭はたとひ安くとも仕事があれば、パンを買ふ銭もあるが、雇を解かれゝば、パンを買ふ銭も無くなつて、たゞ坐食しなければならぬ。どうしても資本家と労働者と激戦をしなければなりません。望のある動物なら、何とかしてこの組織を破らうと云ふ考を起すは、已むを得ない。」
「私は社会党でも共産党でもないが、国として考へれば、百人の中一人は非常に富んで九十九人は極貧であるは、人情喜ぶべきでない、国の安全でもない。人民が殖えて分配も行き渉り、百人が略々同様に安楽なるは喜ぶべきことゝ私は思ひます。これが、私は日本の後来の為に注意すべき点と思ふ。私は斯様なる社会の有様に日本を置きたいと希望します。日本にバンデルビルトの如き人が出来ずとも衆人が不足を告げず、資本労力の戦争なき富国にしたいと、私は思ひます。さればとて弊害をのみ恐れて、現在のまゝ未開の有様に居ようと主張するではありません。矢張り大きな製造会社も起したい。今日のやうに熱天に汗をかいて一人でボツ/\仕事するよりも、器械を用ひてやるやうにしたいが、同時にこれに伴ふ弊害を避ける方法を講究したい。」
 かくて先生は、独逸の社会党を説き英国のツレードユニオンを説き、最後に「コーペレーシヨン」に就て実地見聞の説明をして、一大長講演を結んである。
 僕はこの速記録を読んで、時勢の変遷に驚愕した。「産業革命」の知識は、今や少年少女の常識になつて居る。けれど、明治二十年の頃には、大学生の頭にも未だ異聞怪談であつた。この時に於て、平明に豊富に、噛んで含めるやうに未来を警告された先生の知見と誠意と能弁とに、僕は心の底から感歎した。先生はこの時三十九歳だ。
 これを読んで、僕は更に一つの事を理解した。
 丁度十年を経て、明治三十四年僕等は社会民主党を造つた。憎悪と嫌忌と賤蔑との世論の中に立つて、先生は「社会主義と社会党」と題し、毎日新聞紙上月余に渉つて詳細慎密に評論された。後に「社会主義概論」と改題して出版されその頃普く愛読されたものだ。当時先生の態度は何と言うて可からう。今のハヤリ言葉を借用すれば、「シンパ」と言ふ所だらう。然れ共少し離れて疑はしげに眺める者には何と見えたであらうか。社会党の創立者中、安部磯雄、片山潜の二人は先生と親交ある友人だ。数にも足らぬ人間ながら、僕と言ふ者は現に先生に尤も親近な社中の者だ。貴族富豪等の目には先生が事実社会党の首領の様に見えたであらう。明治三十六年の、横浜の選挙と云ふ活劇には、この事が一つの大きな動機をなして居たやうに思はれる。三十六年の横浜の選挙は、単に先生一身上の劃期的事件であつた許りでなく、政治思想史上にも社会思想史上にも、注目すべき活きた運動であつた。然し、僕はそれを説く前に今一つ先生の思想問題上君に聴いて欲しいものがある。

  「開国始末」執筆の頃

 先生を語る為めに、全集を彼れ此れ開いて居ると、
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