自由の使徒・島田三郎
木下尚江
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)輦轂《れんこく》の下、
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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ボツ/\
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幸福なる思ひ出
若き友よ。
僕が島田三郎先生を語るとなれば、直ぐに一つの場面が目に浮ぶ。
大正十二年、この年は正月早々から先生は身心の疲労で、議会へも出なされず一切来客を謝絶して、番町の自邸で静養して居られた。かゝる時、僕のやうな世務に全く無交渉の者は幸福で、時々お邪魔して、自由にお話することが出来た。
或日、先生は、この社会多事の時に、病体で引き籠つて居るのが如何にも恥づかしいと言はれるので、僕は強く頭を振つて反対した。
『僕は然うは思ひません。先生が過去幾十年、言論文章で奮闘なされたよりも、今日病んで黙つて居なさる方が、何程大事業か知れないと、僕は信じて居ます』
『それは、どう云ふわけですか』
と先生は不思議さうに僕の顔を見られるので、僕は、先年先生が始めて普通選挙問題を提出して、世上の物議を起しなさつた折の事を思出して、先生に言うた。
『あの時、僕は「先生は普通選挙に依て政治の頽廃を救ふことが出来ると云ふ御信念ですか」とお尋ねしました所、先生は「それは違ふ。普通選挙の主唱は政治上の義務である。政治は今後益々悪化する」かう仰つしやいました。この御一言で僕は先生の御胸中を明白に知ることが出来たやうに感じましたので、直ぐ話頭を転じて他の話に移つたことを記憶して居ますが――』
『然うです。私も能く記憶して居ります』
と先生は首肯かれた。そこで僕は突き込んでお尋ねした。
『然らば、何故に政治は益々悪化致しますか』
『それは、国民の道念が頽廃したからです』
『国民の道念は何故に頽廃しましたか』
『それは、儒教で言へば天、基督教で言へば神、この天若くは神と云ふ信念が破滅した為めです』
僕は伸び上がつて言つた。
『御覧なさい。それ程の重い苦悩を、中に担うていらつしやるではありませんか。それが即ち今日先生の御病気ではありませんか。先生今日の御病気は、一個の島田三郎のものでは無い。国民の病を病んで居なさるのだ。更に大きく言へば、今日世界共通の人間の病を病んで居なさるのだ。故に僕は言ひます。先生今日の御病気は、過去一切の御活動よりも遙かに優りたる大事業である』
僕は何時しか先生の病体と云ふことをも忘れ、朱檀の小卓を叩いて先生に迫つた。
先生は両手を膝に置いた儘目を閉ぢて黙想して居られた。
僕は語気を静めて、それから自分の貧弱な「信念」の経験を先生に告白した。先生も亦多年の実験を腹蔵なく語つて下された。僕が明治三十二年の春、毎日新聞で文筆生活に従事して以来、先生の恩誼に浴すること実に二十五年、然かも、先生に対してこの日ほどの幸福を感じたことを覚えない。
『先生は常に御多忙で、時を忘れてお話をお聞きすると云ふやうな、喜びを味ふことが出来ませんでしたが、今日は始めて、胸憶を全部開いてお話することが出来ました』
かう言うて、「病気の賜物」を感謝した。
『私も誠に愉快です』
かう云はれた先生の面貌には、一点憂愁の影も無く、晴れ渡つて、青春の光に輝いて見えた。
君よ。これが僕の島田先生だ。
この年九月一日が関東の大震災。猛火は島田邸の直ぐ裏まで迫つたが、急に風向が変つて、あのあたり数個の邸宅が沙漠のオアシスの如くに焼け残つた。
十一月十四日の暁、先生は真に安らかに永眠に就かれた。享年七十三。葬儀は多年の昵近者の手で行はれた。内ヶ崎作三郎君が司会をした。吉野作造君が履歴を読んだ。石川安次郎君が遺文を読んだ。山室軍平君が説教をした。安部磯雄君が所感を述べた。遺骨は青山の次男悌二郎さんと同じ墓穴に納められ、石碑にはたゞ「島田家墓」と彫つてある。
未来への洞察と警告
先生の全集刊行の際、僕も聊かそれに参加したが、山なす遺文を一々見て行く中、不図一つ講演の速記を手にして覚えず驚喜に打たれた。それは明治二十三年の三月、当時数寄屋橋教会堂に催された青年会での演説で、標題は「共同営業(コーペレーシヨン)」としてある。明治二十三年の春と言へば、前年の十月には大隈外務大臣が条約改正問題の為め、反対党の爆裂弾に打たれ、この年の七月には日本歴史未曾有の衆議院議員選挙が行はれる予定で、全国ただ政治運動に狂転して居る時だ。先生は去年の秋欧米漫遊から帰つて見えたばかりでこの演説が殆ど帰朝後の第一声と言うてもよからう。政治全能時代の青年に向て「今後
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