かんことを勧むるあり。然れ共予の本党に対する関係極めて旧く、明治十五年改進党組織の初より諸氏の後に随つて鞅掌し、其の一変して進歩党となり、再変して憲政党となりまた憲政本党となるの今日に至る迄、先輩の訓を奉じ、同列と喜憂を共にし、諸氏と進退を同じくし、自ら紹介せし議員も亦少しとせず。予の頑硬を以て屡々諸氏に逆ひしと雖も、諸氏能く包容して予と絶つに至らず。其の友義交情久しく且つ深きこと此の如し。仮令小事の意見牴牾するも、豈俄に党外に退くこと、其の経歴を異にする田口卯吉の如くするを得んや。而して今や財政問題に於て党議と相反するものあり、遂に已むを得ずして党籍を脱す。豈今昔の感慨無からんや。」
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然れどもこれは単に形式上の問題で、例の六派が解体して進歩党の出来た時が即ち先生が政党を脱退した時である。
変形切支丹禁制思想との抗争
今この「政友諸君に告ぐ」の一文を見ると、十二月二十三日、新聞紙上に発表されて居る。すると、僕が番町邸へ始めて参上して、毎日新聞入社の承諾を得たのは、その前日二十二日であつたのだ。重荷を下ろしたと言つた態度で快談された先生の第一印象が、判然と目に残つて居る。「学生」「労働者」「婦人」この三つが今後自分の三題目であると云ふ先生の御意見であつた。あの時、先生は四十七、僕もまだ三十であつた。
日清戦争の余勢、多年の難題たる条約改正も行はれて、三十二年七月十七日から、愈々外人の内地雑居自由と云ふ期が近づいた時、切支丹禁制思想の変形で、仏教徒の間に公認教制定と云ふ政治運動が起り、寺院の余力の尚ほ盛な地方では、代議士選挙の上にまで、大なる圧迫となつて現はれた。この時先生は啓蒙の為に「対外思想の変遷」と云ふ題目で、一大長論文を発表された。東西両洋に於ける政治と宗教との関係を一目の下に解得せしめる名文章で、先生の学問と見識とを知る上に最も適当な資料であると思ふ。先生の全集第四巻「政教史論」を、僕は諸君に一度見て貰ひたい。
貴族と富豪との激争
然らば君よ。予約の如くこれから三十六年の横浜の選挙を語る。日清戦争の後三菱の肝煎で、薩摩と進歩党との聯立内閣を造つたことは先きに語つたが、今や三菱は再び内閣改造劇の新脚本を書いた。
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一、三十五年十二月六日が第十七議会召集の予定。桂太郎内閣時
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