加減のことをするわけには参らぬ。その事が果して必要な条件であり、また私の方針持論が国の不利益横浜市の不利益と云ふことなればその理由を悉く話され、互に胸襟を開いて講究するは別段なれど、只理由なく申込まれ、私が木村君の競争を避ける為に、条件付の申込にお答へ申すことは出来ない。国家公共の利害横浜市実際の利害と云ふ明瞭なる理由から互に説を尽すは宜いが、たゞ円滑の為に事情の為に抂げることは出来ない。私は何時の競争でも負けることのあるを覚悟して居る。少数で負けたら、尚ほ多数の同意を得るまで待つのが、代議政体の本体で、内閣が国会で負けて潔く辞職すると同じ道理だから、負けるのは恥でないが、故なく説を抂げるのは、この上もなく良くないことゝ思ふ。――一生の働から見れば、一時負けた方が、説を曲げて勝つより宜いと覚悟して居る。一時の為に条件を承諾し、それで嘘言を吐くと云ふことは、後来私の一身に関することであるから出来ない』かう云ふのが初めの挨拶であります云々」
[#ここで字下げ終わり]
 此時、反対派の木村候補者からの「無競争」と云ふ申込には、実は深酷な意味があつたのだ。前年即ち二十五年の有名な選挙干渉の時、民党の驍将島田三郎の地盤横浜の戦争は実に火の出る接戦であつた。
 この頃の選挙法は、選挙資格が直接国税十五円と云ふ高い制限で、当時の横浜は地域も狭く人口も少く、選挙人の総数は多分三百人内外のものであつたらう。且つ記名投票なのだから、勝敗は選挙前から予知することが出来る。反対派の候補者木村利右衛門と云ふは正金銀行の重役で、年齢は先生よりも上だ。一点の差で先生が敗けるか、同点で年少の為に敗けるのか、何れにしても先生の落選と云ふことは、敵味方の一致する予定成績であつた。然るに開票の結果は、一点の差で島田三郎の当選となつた。実に意外、全く意外――然しこれには悲壮な一美談がある。正金銀行の有権者は、無論悉く木村に投票するものとして、何人も疑はなかつた。然るに一人の若き島田崇拝者があつた。選挙の朝、彼は島田に投票し、直ぐ其足で銀行へ赴いて予め認めて居た辞職届を出して帰宅した。この一票で生死の運命が全く転換した。僕は今この人の名を失念して君に語ることの出来ないのを遺憾に思ふ。未だ血も乾かぬこの苦戦の実況を頭に置いて見る時、今度木村からの「条件付無競争」と云ふ申込に、如何ばかり大きな誘惑力を包んで居る
前へ 次へ
全19ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング