のムサくるしい玄関で、彼は始めて幸徳を見た。幸徳はなた[#「なた」に傍点]豆煙管をたゝいて、時勢を論じたさうだ。明治二十年の冬、保安条例で兆民が東京を逐はれた時、当時十七歳の幸徳も、師匠に同伴して大阪へ行つたものと思はれる。
『兆民門下の麒麟児だよ』
と、石川は盛んに幸徳を推称した。
僕が東京へ出て「毎日新聞」へ入社したのは、石川のお蔭であつた。
二
三十二年の春、僕が上京後間も無い頃、或朝石川の下宿で話して居ると、襖の外に、
『石川――』
と、やさしく呼ぶ声がした。
『はいれ』
と、石川が大きな声でいふと、スウと襖が開いた。
見ると、色は小黒いが眉目の秀麗な、小柄な若い男が立つて居る。僕を見て、躊躇して居る様子、
『はいれ』
と石川が又呼んだ。
『可いか――』
というたその口元に、妙に処女のやうな羞恥がもれた。
これが幸徳であつた。彼は文章と識見とで、当時既に「万朝報」紙上の名華であつた。
僕に幸徳の事を口を極めて称讃した如く、石川は、僕の事をも幸徳に、輪に輪をかけて話して置いたものらしい。初対面ながら、古馴染のやうな気がしてすつかり打ち解けて語ることが出来
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