《さかづき》を捧げつゝあり、
 篠田は膝《ひざ》に手を置きて「私《わたし》は酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、私《わたし》は一切、用ひませぬから」
 丸井老人ニユウと禿顱《はげあたま》突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なき業《しわざ》なり、斯《か》かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと猿臂《ゑんぴ》を延ばして、彼女《かれ》の手より盃《さかづき》を奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に一盞《いつさん》を傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒の方《かた》の代理と云ふ法も無《ない》わけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は奇麗《きれい》に光る禿顱《とくろ》を燈下に垂れて、ツル/\と撫《な》で上げ撫で下ろせり、花吉は絹巾《ハンケチ》に失笑《をかしさ》を包みて、窃《そ》と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の芸妓殺《げいしやころし》――小米《こよね》の一件に就《つい》て先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝ盃《さかづき》差し出《いだ》す、
 花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、彼《あ》の晩もネ、香雪軒《かうせつけん》の御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅク厭《いや》になつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の帰路《かへり》にヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い事情《わけ》があるんですツてネ」
「サ、其の男の方《はう》を此の篠田先生が能《よ》く御存《ごぞんじ》なので、色々御話を承つて居たのだがネ」
 丸井は火鉢の上に身を屈《かが》めつゝ「ぢや、先生、其の兼吉《かねきち》と云ふのほ、恋の協《かな》はぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
「左様《さう》です、彼は決して嫉妬《しつと》などの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟《ひつきやう》、自分の最愛の妻――仮令《たとひ》結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な其《そ
前へ 次へ
全148ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング