》けり「ア、貴嬢《あなた》ですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
 深夜の雪道に凍《こゞ》えてや、婦人の声の打ち震《ふる》ひて聞えぬ、
「暫《しばら》くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」驚愕《きやうがく》と怪訝《けげん》とに心騒げる大和の声は甚《いた》くも調子狂ひたり、
 既に文書|認《したゝ》め了《おは》りし篠田は、今や聖書|繙《ひもと》きて、就寝前の祈祷《きたう》を捧げんとしつゝありしなり、
 彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが御光来《おいで》になりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
「左様《さう》です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を御光来《おいで》は尋常のことでは有るまい、――早速に」
 梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへ甚《いた》く衰へて見ゆ、彼女《かれ》は言葉は無くて只《た》だ慇懃《いんぎん》に頭《かしら》を下げぬ、
「良久《しばらく》御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重《ていちよう》に礼を返へして、「此の吹雪《ふぶき》の深夜|御光来《おいで》下ださるとは甚《はなはだ》だ心懸《こゝろがかり》に存じます、早速承るで御座いませう」
 梅子は僅《わづか》に頭《かしら》を擡《もた》げぬ「――篠田さん――私、貴所《あなた》に御逢《おあ》ひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
 彼女《かれ》は逡巡《ためら》ひつゝ、窃《そつ》と傍《かたへ》の大和を見やりぬ、
 容易ならぬことの一語に、危殆《きたい》の念|愈々《いよ/\》高まれる大和は、躊躇《ちうちよ》する梅子の様子に、必定《ひつぢやう》何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を一瞥《いちべつ》して起たんとす、
 篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念《ごけねん》に及びませぬ、是《こ》れは私の弟ですから」
 大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
「否《い》エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひ能《あた》はざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係し
前へ 次へ
全148ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング