》はして面《かほ》を掩《おほ》へり、
剛一も目を閉ぢて暫《し》ばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子は頭《かしら》を擡《もた》げつ「貴郎《あなた》、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔は赧《あか》くなれり、
「ハア、折角《せつかく》の日曜も姉さんの行《いら》つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田|様《さん》を訪問したのです、――非常に憤慨《ふんがい》してでしたよ」
「私の挙動《きよどう》をでせう」
「左様《さう》ぢやないです」と剛一は頭《あたま》を掉《ふ》りつ「仮令《たとひ》世界を挙げても、処女《をとめ》の貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でも彼《あ》の翌日と云ふものは、警察の手を以て彼《あ》のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉に関《かゝ》はるからと云ふんでネ――実に怪《け》しからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、到底《たうてい》道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔と賤《いや》しめられて忌《いや》な生涯《しやうがい》を終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つて棄《す》てたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは其処《そこ》なんです、貴嬢《あなた》の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた今日《こんにち》に在《あ》ると仰《おつ》しやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めて凡《すべ》ての束縛《そくばく》から逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の毀誉褒貶《きよはうへん》からも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は貴嬢《あなた》が真正《ほんたう》に貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、詛《のろひ》の子か――けれど君の姉さんが此際、撰択《せんたく》の道を過《あやま》つ如き、弱く愚《おろか》なる人で無いことは確《たしか》に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢を斯《か》くまで篤《あつ》く信じて居なさいますよ」
梅子は枕
前へ
次へ
全148ページ中110ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング