源氏物語
夢の浮橋
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薫《かおる》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出家|遁世《とんせい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]明けくれに昔こひしきこころもて生く
[#地から3字上げ]る世もはたゆめのうきはし (晶子)

 薫《かおる》は山の延暦寺《えんりゃくじ》に着いて、常のとおりに経巻と仏像の供養を営んだ。横川《よかわ》の寺へは翌日行ったのであるが、僧都《そうず》は大将の親しい来駕《らいが》を喜んで迎えた。これまでからも祈祷《きとう》に関した用でつきあっていたのであるが、特に親しいという間柄にはなっていなかったところが、今度の一品《いっぽん》の宮《みや》の御病気の際に、この僧都が修法を申し上げて著るしい効果を上げたのを見た時から、大きな尊敬を払うようになって、以前に増した交情を生じたために、重々しい身でわざわざこの山寺へ訪ねて来てくれたとしてあらんかぎりの歓待《もてなし》をした。ゆるりと落ち着いて話などをしている客に湯漬《ゆづ》けなどが出された。あたりのやや静かになったころ、
「小野の辺にお知り合いの所がありますか」
 と薫は尋ねた。
「そうです。それは古くなった家なのでございます。私に朽尼《くちあま》とも申すべき母がありまして、京にたいした邸《やしき》があるのでもありませんから、私が寺にこもっております間は、近くに来ておれば夜中でも暁でも何かの時に私が役だつことになるかと思いまして小野に住ませてあるのでございます」
「あの辺は近年まで住宅も相応にあったそうですが、このごろは家が少なくなったそうですね」
 と言ったあとで、薫は座を進めて低い声になり、
「確かなこととも思われませんし、またあなたへお尋ねしましては、なぜ私がそれを深く知ろうとするのかと不思議にお思いになるであろうしとはばかられるのですが、その山里のお家《うち》で私に関係のある人がお世話になっているということを聞きましたが、事実であるとすれば、そうなるまでの経路などもお話し申しておきたいと考えていましたうちに、あなたのお弟子にしていただいて尼の戒を授けられたということが伝わってきましたが、真実でしょうか。まだ年も若くて親などもある人ですから、私の行き届かない所からなくしたように恨まれてもしかたのない人なのですが」
 と薫は言った。僧都は予期のとおりあの人はただの家の娘ではなかった。貴女《きじょ》であろうとは初めから考えられたことであった。自身で来てこれほどに言っておられる人であれば、深く愛された人に違いないと思うと、自分は僧であるにせよ、あまりに分別なくあの人の望みにまかせて出家をさせてしまったものであると胸がふさがり、返辞をどうすれば障《さわ》りなく聞こえるであろうと考えられるのであった。事実をもう皆知っておられるらしい、これだけのことがすでにわかっている上で、探りにかかられては何も何も暴露してしまうはずである、隠してはかえって迷惑が起こるであろうという結論を僧都は得て、
「どういうことでこんなことが起こりましたかと、昨年来不思議にばかり思われていました方のことかと思われます」
 と言い、
「小野の母と妹の尼が初瀬《はせ》寺に願がございまして参詣《さんけい》いたしました帰りに宇治の院という所に休んでおりますうちに、母の尼が旅疲れで発病いたしまして、重そうに見えると申すしらせが私の所へあったものですから、私も宇治へ出かけたのです。そうしますとあちらで不思議なことが起こったと言いだしまして、母の介抱《かいほう》もさしおきまして、妹の尼はどうしてもこの方の命を助けたいと騒ぎ出しました。その若い病人も死人同様になっていましたがさすがに呼吸《いき》はあったのですから、昔の小説の殯殿《ひんでん》に置いた死骸《しがい》が蘇生《そせい》したという話を妹は思い出しまして、そんなことかと私の弟子の中の祈祷《きとう》の上手《じょうず》な僧を呼び寄せましてかわるがわる加持をさせなどしておりました。私は、惜しむべき年齢《とし》ではないのですが、旅の途中で病みました母に、正念に念仏もさせて終わらせたいと仏のお助けを乞《こ》うておりましてその人のほうはくわしく見ませんでした。何がそうさせていたかと思ってみますと、天狗《てんぐ》、木精《こだま》などというものが欺いて伴って来たものらしく解釈がされます。助けて京へ伴って来ましたあとも三月くらいは死んだ人と変わらぬようだったのですが、以前の衛門督《えもんのかみ》の妻でございました私の妹の尼は、一人より持っておりませんでした女の子をなくしましてから時はたっても、悲しみ
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