って、晴れ晴れしくなってくださいよ。この五、六年片時も忘れることができなくて悲しい悲しいと思っていた人のことも、あなたという方をそばで見るようになってからは忘れてしまいましたよ私は。あなたをお愛しになった方がたがこの世においでになっても、もうあなたはお亡《な》くなりになったものと今ではあきらめておいでになりましょうよ。何のことだってその当時ほどに人は思わないものですからね」
と言うのを聞くうちにも姫君は涙ぐまれてくるのであった。
「私は何も隔てをお置きする気などはないのですけれども、不思議な蘇生《そせい》をしましてからは、何も皆夢のようにしか思い出せなくなっていまして、別の世界へ生まれた人はこんな気がするものであろうと感じられますから、身寄りというものがこの世にまだあるとも、思っていません私は、あなたの愛だけを頼みにしているのでございます」
と言う浮舟《うきふね》の顔に純真さが見えてかわいいのを尼君は笑《え》みながら見守っていた。
山の寺へ着いた中将を僧都も喜んで迎え、いろいろと世上の話を聞いたりした。その夜は宿泊することにして尊い声の出る僧たちに経を読ませて遊び明かした。弟の禅師とこまやかな話をしているうちに中将は、
「小野へ寄って来たがね、身にしむ思いを味わわせられた。出家したあとまであれだけ高雅な趣味のある生活のできる人は少ないだろうね」
こんなことを言い、続いて、
「風が御簾《みす》を吹き上げた時に、髪の長い美しい人を見た。あらわになったと気のついたように立って行ったが、後ろ姿が平凡な人とは見えなかった。ああした所に若い貴女などは置いていいものでないね。明け暮れ見る人といっては坊様だけだから、のぞく者がないかと使う神経が弛緩《ちかん》してしまうからね、気の毒だよ」
こんな話をした。
「この春|初瀬《はせ》へ詣《まい》って不思議な縁でおつれになった若いお嬢さんだということです」
禅師は自身の携わった事件でなく知るはずもなかったから細かには言わない。
「かわいそうな人なのだね、どんな家の人だろう。世の中が悲しくなったればこそそうした寺へ来て隠れていたのだろうからね。昔の小説の中のことのようだ」
と中将は言った。
翌日山からの帰途にもまた、
「通り過ぎることができぬ気になって」
こんなことを言って小野の家へ立ち寄った。ここでは迎えることを期していて食事の仕度《したく》もできていた。昔どおりに給仕をする少将の尼の普通に異なった袖口《そでぐち》の色も悪い感じはせず美しく思われた。尼夫人は昨日《きのう》よりもまだひどい涙目になって中将を見た。感謝しているのである。話のついでに中将が、
「このお家《うち》に来ておいでになる若い方はどなたですか」
と尋ねた。めんどうになるような気はするのであったが、すでに隙見《すきみ》をしたらしい人に隠すふうを見せるのはよろしくないと思った尼君は、
「昔の人のことをあまり心に持っていますのは罪の深いことになると思いまして、ここ幾月か前から娘の代わりに家へ住ませることになった人のことでしょう。どういう理由か沈んだふうでばかりいまして、自分の存在が、人に知れますことをいやがっておりますから、こんな谷底へだれがあなたを捜しに来ますかと私は慰めて隠すようにしてあげているのですが、どうしてその人のことがおわかりになったのでしょう」
「かりに突然求婚者になって現われた私としましても、遠い路《みち》も思わず来たということで特典を与えられなければならないのですからね、ましてあなたが昔の人と思ってお世話をしていらっしゃる方であれば、私の志を昔に継いで受け入れてくだすっていいはずだと思います。どんな理由で人生を悲観していられる方なのですかねえ。慰めておあげしたく思われますよ」
好奇心の隠せぬふうで中将は言った。帰りぎわに懐紙へ、
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あだし野の風になびくな女郎花《をみなへし》われしめゆはん路《みち》遠くとも
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と書いて、少将の尼に姫君の所へ持たせてやった。尼君もそばでいっしょに読んだ。
「返しを書いておあげなさい。紳士ですから、それがあとのめんどうを起こすことになりますまいからね」
こう勧められても、
「まずい字ですから、どうしてそんなことが」
と言い、浮舟の聞き入れないのを見て、失礼になることだからと尼君が、
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お話しいたしましたように、世間|馴《な》れぬ内気な人ですから、
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移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花浮き世をそむく草の庵《いほり》に
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と書いて出した。はじめてのことであってはこれが普通であろうと思って中将は帰った。
中将は小野の人に手紙を送ることもさすがに今さら若々し
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