あったとはかなまれて、手習いに、

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身を投げし涙の川の早き瀬にしがらみかけてたれかとどめし
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 こんな歌を書いていた。よいことの拾い出せない過去から思えば将来も同じ薄命道を続けて歩んで行くだけであろうと自身がうとましくさえなった。
 月の明るい夜ごとに老いた女たちは気どった歌を詠《よ》んだり、昔の思い出話をするのであったが、その中へ混じりえない浮舟の姫君はただつくづくと物思いをして、

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われかくて浮き世の中にめぐるともたれかは知らん月の都に
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 こんな歌も詠まれた。自殺を決意した時には、もう一度逢いたく思った人も多かったが、他の人々のことはそう思い出されもしない。母がどんなに悲しんだことであろう。乳母《めのと》がどうかして自分に人並みの幸福を得させたいとあせっていたかしれぬのにあの成り行きを見て、さぞ落胆をしたことであろう、今はどこにいるだろう、自分がまだ生きていると知りえようはずがない、気の合った人もないままに、主従とはいえ隔てのない友情を持ち合ったあの右近《うこん》のこともおりおりは思い出される浮舟であった。若い女がこうした山の家に世の中をあきらめて暮らすことは不可能なことであったから、そうした女房はいず、長く使われている尼姿の七、八人だけが常の女房であった。その人たちの娘とか孫とかいう人らで、京で宮仕えをしているのも、また普通の家庭にいるのも時々出て来ることがあった。そうした人が宇治時代の関係者の所へ出入りすることもあって、自分の生きていることが宮にも大将にも知れることになったならきわめて恥ずかしいことである、ここへ来た経路についてどんな悪い想像をされるかもしれぬ、過去において正しく踏みえた人の道ではなかったのであるからと思う羞恥《しゅうち》心から、姫君は京の人たちには決して姿を見せることをしなかった。尼君は侍従という女房とこもき[#「こもき」に傍点]という童女を姫君付きにしてあった。容貌も性質も昔日の都の女たちにくらべがたいものであった。何につけても人の世とは別な世界というものはこれであろうと思われる。こんなふうに人にかくれてばかりいる浮舟を、この人の言うとおりにめんどうなつながりを世間に持っていて、それからのがれたい理由《わけ》が何ぞあるのであろうと尼君も今では思うようになって、くわしいことは家の人々にも知らせないように努めていた。
 尼君の昔の婿は現在では中将になっていた。弟の禅師が僧都の弟子になって山にこもっているのを訪《たず》ねに兄たちはよく寺へ上った。横川《よかわ》へ行く道にあたっているために中将はときどき小野の尼君を訪ねに寄った。前払《さきばら》いの声が聞こえ、品のよい男が門をはいって来るのを、家からながめて浮舟の姫君は、いつでも目だたぬふうにしてあの宇治の山荘へ来た薫《かおる》の幻影をさやかに見た。心細い家ではあるが住みなれた人は満足して、きれいにあたりが作ってあって、垣《かき》に植えた撫子《なでしこ》も形よく、女郎花《おみなえし》、桔梗《ききょう》などの咲きそめた植え込みの庭へいろいろの狩衣《かりぎぬ》姿をした若い男たちが付き添い、中将も同じ装束ではいって来たのであった。
 南向きの座敷へ席が設けられたのでそこへすわり、沈んだふうを見せてその辺を見まわしていた。年は二十七、八で、整った男盛りと見え、あさはかでなく見せたい様子を作っていた。尼君は隣室の襖子《からかみ》の口へまで来て対談した。少し泣いたあとで、
「過ぎた月日の長くなりましたことで、あの時代といいますものが遠い世のような気がいたされながら、おいでくださいますのを山里に添えられる光明のように思われまして、今でもあなたをお待ちすることが心から離れませんのを不思議に思っております」
 と言うのを聞いて、中将は湿った気持ちになり、
「昔のことの思われない時もないのですが、世の中から離脱したことを標榜《ひょうぼう》しておいでになるような今の御生活に対して、古いことにとらわれている自分が恥ずかしくって、お訪ねいたすのも怠りがちになってしまいました。山ごもりをしている弟もまたうらやましくなり、僧都《そうず》のお寺へはよくまいるのですが、ぜひ同行したいという人が多いものですから、お寄りするのを妨げられる結果になりまして、失礼もしましたが、今日は都合よくその連中を断わって来ました」
 と言っていた。
「山ごもりをおうらみになったりしては、かえって近ごろの流行かぶれに思われますよ。昔をお忘れにならないお志は現代の風潮と変わったありがたいことと、お噂《うわさ》を聞いて思うことが多うございます」
 などと言うのは尼君であった。ついて来た人々に水飯《すいはん》が饗応《き
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