るようになったころにかえって重い病中よりも顔の痩《や》せが見えてきた。この人の命を取りとめえたことがうれしく、そのうち健康体になるであろうと尼君は喜んでいるのに、
「尼にしてくださいませ、そうなってしまえば生きてもよいという気になれるでしょうから」
と言い、浮舟は出家を望んだ。
「いたいたしいあなたをどうしてそんなことにされますか」
と尼君は言い、頭の頂の髪少しを切り、五戒だけを受けさせた。それだけで安心はできないのであるが、賢《さか》しげにしいてそれを実現させてくれとも言えなかった。山の僧都は、
「もう大丈夫です。このくらいのところで快癒を御仏におすがりすることはやめたらいいでしょう」
と言い残して寺へ帰った。
予期もせぬ夢のような人が現われたものであるというように尼君は恢復期の浮舟を喜んで、しいて勧めて起こし、髪を自身で梳《す》いてやった。長い病中打ちやられてあった髪であるが、はなはだしくは乱れていないで、まもなく縺《もつ》れもほぐれて梳《す》きおろされてしまうと、つやつやと光沢が出てきれいに見えた。「百年《ももとせ》に一とせ足らぬ九十九髪《つくもがみ》」というような人たちの中へ、目もくらむような美しい天女が降って来たように見えるのも、跡なくかき消される姿ではないかという危うさを尼君に覚えさせることになった。
「なぜあなたに人情がわからないのでしょう。私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、物隠しをしてばかりおいでになりますね。どこの何という家の方で、なぜ宇治というような所へ来ておいでになりましたの」
尼君から熱心に聞かれて浮舟の姫君は恥ずかしく思った。
「重くわずらっておりましたうちに皆忘れてしまったのでしょうか、どんなふうにどこにいたかを少しも覚えていないのですよ。ただね、私は夕方ごとに庭へ近い所に出て寂しい景色《けしき》をながめていたらしゅうございます。そんな時に近くにあった大木の蔭《かげ》から人が出て来まして私をつれて行ったという気がします。それ以外のことは自分ながらも、だれであるかも思い出されないのですよ」
と姫君は可憐《かれん》なふうで言い、
「私がまだ生きているということをだれにも知られたくないと思います。それを人が知ってしまっては悲しゅうございます」
と告げて泣いた。あまり聞かれるのが苦しいふうであったから尼君はそれ以上を尋ねようとしなかった。かぐや姫を竹の中に見つけた翁《おきな》よりも貴重な発見をしたように思われるこの人は、どんな隙《すき》から消えていくかもしれぬということが不安に思われてならぬ尼夫人であった。この家の人も貴族であった。若いほうの尼君は高級官吏の妻であったが、良人《おっと》に死に別れたあとで、一人よりない娘を大事に育てていて、よい公達《きんだち》を婿にすることができ、その世話を楽しんでしていたのであるが、娘は病になって死んだ。それを非常に悲しみ尼になってこの山里へ移って来たのである。忘れる時もなく恋しい娘の形見とも思うことのできる人を見つけたいとつれづれなあまりに願っていた人が、意外な、容貌《ようぼう》も様子も死んだ子にまさった姫君を拾いえたのであったから、現実のことともこれを思うことができず、変わりなしにこの幸福の続いていくかどうかをあやぶみながらもうれしく思っている尼君であった。年はいっているがきれいで、品がよく、身のとりなしにも気高《けだか》いところがあった。ここは浮舟のいた宇治の山荘よりは水の音も静かで優しかった。庭の作りも雅味があって、木の姿が皆よく、前の植え込みの灌木《かんぼく》や草も上手《じょうず》に作られてあった。
秋になると空の色も人の哀愁をそそるようになり、門前の田は稲を刈るころになって、田舎《いなか》らしい催し事をし、若い女は唄《うた》を高声に歌ってはうれしがっていた。引かれる鳴子の音もおもしろくて浮舟は常陸《ひたち》に住んだ秋が思い出されるのであった。同じ小野ではあるが夕霧の御息所《みやすどころ》のいた山荘などよりも奥で、山によりかかった家であったから、松影が深く庭に落ち、風の音も心細い思いをさせる所で、つれづれになってはだれも勤行ばかりをする仏前の声が寂しく心をぬらした。尼君は月の明るい夜などに琴を弾《ひ》いた。少将の尼という人は琵琶《びわ》を弾いて相手を勤めていた。
「音楽をなさいますか。でなくては退屈でしょう」
と尼君は姫君に言っていた。昔も母の行く国々へつれまわられていて、静かにそうしたものの稽古《けいこ》をする間もなかった自分は風雅なことの端も知らないで人となった、こんな年のいった人たちさえ音楽の道を楽しんでいるのを見るおりおりに浮舟《うきふね》の姫君はあわれな過去の自身が思い出されるのであった。そして何の信念も持ちえなかった自分で
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