なくなったのは、大将が上手《じょうず》に、その人をなだめてしまい、自分へ来るより安定のありそうな境遇を選ばせることにしたのであろう、それは道理でもあると思召すのであったが、御自身としては残念でねたましく、今の態度はこうであっても、確かに自分をあの人は愛していたのだ、逢わないうちに周囲の者からよけいな忠告をされて、そのほうへ心が傾いたのであろうと物思いをしておいでになると、「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行き方のなき」というふうにもなっていくため、例の無理をあそばして宇治へおいでになった。
蘆垣《あしがき》のところへ近づいておいでになると、これまでとは変わり、
「そこへ来るのはだれだ」
と緊張した声でとがめる者が幾人もあった。そこからやや遠ざかっておいでになり、行きなれた侍だけをおやりになったが、それをさえ誰何《すいか》した。以前の様子と変わったことをめんどうに思い、
「京から急用のお手紙を持って来たのです」
と侍は言った。右近の使っている侍の名を言って呼んでもらった。右近はこの上にもまた難儀なことが起こってくると思った。
「どうしても今夜はだめでございます。非常に恐縮しておりますが」
と宮へ申し上げさせた。宮はどうしてこんな冷淡な取り扱いをするのであろうと、途方にくれたように思召して、
「ともかくも時方《ときかた》が行って、侍従を呼び出して都合をつけさせてくれ」
とお言いになり、内記をまたおやりになった。時方は才子であったから上手に宇治侍を欺《あざむ》いて、侍従を呼び、話すことができた。
「どうしたのでしょうか、大将様から仰せがあったのだと言いまして、宿直《とのい》する人が出過ぎたことばかりを言うようになりまして困ります。お姫様がめいってばかりいらっしゃいますのは、宮様の思召しにお報いになることがおできになりませんからかとお気の毒に拝見いたしております。ことに今夜はあの人らが厳重に見張っておりますから、お逢いにいらっしゃいましてはかえって悪いことになりそうでございます。またおよろしい日においでくださいますことを、前に知らせてお置きくださいましたら私ども秘密になんとかいたして都合をつけます」
と侍従は言い、乳母《めのと》が寝敏《いざと》いことも語った。時方は、
「並みたいていの道をおいでになったのではありませんからね、よくよくお逢いになりたい御様子なんですから、失望をおさせいたすようなお返辞はもったいなくて私からできません。それではあなたがそこまで来てくだすって、私も言葉を添えますが、あなたからお断わりを申し上げるようにしてください」
と言って、誘い出そうとした。それは無理である、ぜひそうしてと言い合っているうちにも夜もずっとふけてきた。
馬上の宮は少し遠くへ立っておいでになるのであったが、田舎風《いなかふう》な犬が集まって来て吠《ほ》え散らす。恐ろしい気がしてお供の少ない軽いお出歩きであったから、無法者が走って出て来たならどう防いでよいかなどと、四、五人の者は心配していた。
「どうしても来てくださることですよ。早く、早く」
とせきたてて時方は侍従をつれて来るのであった。髪を右の脇《わき》から前へ曲げて持っている侍従は美しい女房であった。馬に乗せようとするが承知しないために、衣服の裾《すそ》を時方は持ってやりながら歩かせて行くのである。自身の沓《くつ》を侍従にはかせて、内記は供男の草鞋《わらじ》ようのものを借りてつけた。
宮のおそばへまいって山荘の事情をお話し申し上げ、侍従を伴って来たことをお知らせしたが、お話しになる場所というようなものもなくて、田舎家の垣根《かきね》の雑草の中にあふり[#「あふり」に傍点]というものを敷いて、そこへ宮をおおろしした。宮もこんな所で災厄《さいやく》にあって終わる運命で自分はあるのかもしれぬとお思われになり非常にお泣きになった。心の弱い者はましてきわめて悲しいことであるとお見上げしていた。どんな仇敵《きゅうてき》でも、鬼であっても、そこなえまいと見える美貌《びぼう》をお持ちになるはずである。しばらく躊躇《ちゅうちょ》をあそばしてから、
「ちょっとひと言だけ話をすることもできないのだろうか。どうして今になってそんなに厳重に見張るのだろう。そばの者がどんなことを言ってあの方の自由意志を曲げさせたのか」
と侍従へ仰せられた。山荘内のことをくわしく申し上げて、
「またおいでの思召しのございます前からおっしゃってくださいまして、私どもにできますことをさせてくださいませ。こんなもったいない御様子を拝見いたします以上、私は自分を喜んで犠牲にもいたしまして、よろしい計らいをいたします」
と侍従は申した。御自身も人目をはばかっておいでになるのであるから、恋人をだけお恨みになることもおできにならなかった。
夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしく啼《な》く。従者がそれを追いかけようとすると、山荘のほうでは弓の弦《つる》を鳴らし、荒武者の声で「火の用心」などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。
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「いづくにか身をば捨てんとしら雲のかからぬ山もなく泣くぞ行く
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ではもう別れて行こう」
とお言いになり、侍従をお帰しになった。宮の御様子は艶《えん》で、夜中の霧に湿ったお召し物から立つ香はたとえようもなく感じのいいものであった。
侍従は泣く泣く帰って来た。右近が宮のおいでをお断わり申し上げたことを言ってから浮舟はいよいよ煩悶を深くして寝ていたが、侍従のはいって来て、外での様子を話すのに対して返辞はしないながら枕《まくら》も浮き上がらんばかりの涙の出るのを、この人がどう思うかとまた恥じられもした。
翌朝も泣きはらした目を思うと浮舟は起きるのがつらくていつまでも寝ていた。
起きてからははかなそうな姿で、しかも仏へ敬意を表する型として帯の端を肩から後ろ向きに掛けなどしながら浮舟の姫君は経を読んでいた。親よりも先に死ぬ罪が許されたいためである。宮のお描《か》きになった絵を出してながめているうちに、その時の手つき、美しかったお顔などがまだ近い所にあるように見えてくる。そんなにも心から離れない方であるから、最後にひと言のお話もできなかった昨夜のことは悲しくてならないはずである。初めから同じように永久愛して変わるまいと言っていた大将も、自分が死んだあとではどんなに歎くことであろうと思い、その人への恋を忘れて心の変わったために死んだと自殺後に言う人もあろうことの想像されるのも恥ずかしかったが、軽薄な女と思われ、宮のほうへ奔《はし》ったと大将に思われるよりはまだそのほうがいいと思い続けて、
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歎きわび身をば捨つとも亡《な》きかげに浮き名流さんことをこそ思へ
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と詠《よ》まれもした。母も恋しかった。平生は思い出すこともない異父の弟妹の醜い顔をした人たちも恋しかった。二条の院の女王《にょうおう》を思い出してみても、恋しい。またそのほかにももう一度だけ逢いたいと思われるのが多い。女房たちは皆晴れと思う移転の時の用に物を染めたり、縫い物をしたり、何やかやとそうしたことについて話し合っているが浮舟は耳に聞こうともしない。夜になると人に見つけられずに家を出て行くのはどこをどうして行けばいいかという計画ばかりされて眠れぬために気分も悪く、病人のようになっている浮舟であった。朝になれば川のほうをながめながら「羊の歩み」よりも早く死期の近づいてくることが悲しまれた。
宮からは悲しかった夜のことをお言いになり激情にあふれたお手紙を贈られた。死期に人の見るかもしれぬものであるからと思うと、このお返事にも浮舟は思うだけのことを書かなかった。
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からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん
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とだけ書いて出した。
姫君は大将へも遺書としてのものを書いておきたく思ったが、あちらへもそちらへも書いておいて、親友でおありになる人たちの話に上ることがあれば、情操のないことと思われるかもしれぬ、朧《おぼろ》にぼかしておいて、どうなったかわからぬように自分の消えてしまうのがいいのであると思い返した。
京の使いが母の手紙を持って来た。
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昨夜の悪夢の中であなたを見たものですから、ほうぼうの寺へ誦経《ずきょう》を頼みました。その夢のあとは眠られなかったものですから、今日また昼寝をしました夢に、人が大不吉だという夢の中でまたあなたを見たのです。驚きながらこの手紙を書きます。謹慎日はよく謹慎してお暮らしなさい。寂しいそのお家《うち》へ時々おいでになります大将の関係から、どんな呪《のろい》を受けておいでになるかわからないのにあなたは病気だし、ちょうどこんな時に悪夢が続くので心配しています。私が行きたいのだけれど、少将の妻の産前の容体が不安で、物怪風《もののけふう》に煩っていますから、しばらくでもそばを離れますことは主人がやかましいため出かけられませぬ。そこの近くの寺へも誦経を頼みなさい。
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と書いて、寺へ納めるべき物、寺への依頼状も添えて持たせて来たのであった。
もう死ぬ覚悟をしている自分とも知らずに、こんなに心をつかっているかと浮舟《うきふね》は母の愛を悲しく思った。寺へその使いをやった間に、母への返事を姫君は書くのであった。言いたいことは多かったが気恥ずかしくて、ただ、
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のちにまた逢ひ見んことを思はなんこのよの夢に心まどはで
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とだけ書いた。誦経の初めの鐘の音が川風に混じって聞こえてくるのをつくづくと聞いて浮舟は寝ていた。
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鐘の音《ね》の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ
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これは寺から使いがもらって来た経巻へ書きつけた歌であるが、使いは朝になってから帰るというために木の枝へ結びつけて渡すようにしておいた。乳母《めのと》が、
「何だか胸騒ぎがしてならない。奥様も悪夢をたくさん見ると書いておよこしになったのだから、宿直《とのい》の人によく気をつけるように言いなさい」
と言っているのを、今夜脱出して川へ行こうとする浮舟は迷惑に思って聞いていた。
「お食事の進みませんのはどうしたことでしょう。お湯漬《ゆづ》けでもちょっと召し上がってごらんになりませんか」
などと世話をやくのを、利巧《りこう》ぶっても老人ふうになってしまったこの女は、自分が死んでしまえばどこへ行くであろうと、そんなことも想像して浮舟は悲しかった。もう寿命とは別にこの世から消えて行こうと思っているとほのめかして乳母に言おうとすると、まず自分自身が驚かされて涙の流れるのを隠そうとすれば、それでものが言えなかった。右近が近くへ来て、寝仕度《ねじたく》をしながら、
「あんまり物思いをあそばすと、物思いする魂は身体《からだ》を離れてしまいますから、奥様へも悪い夢になって現われるのでございましょう。どちらか一方へお心をお集めになって、どうにでも成り行きにおまかせなさいませ」
と歎息もしつつ告げた。
柔らかい着物を顔に押し当てるようにして浮舟の姫君は寝たそうである。
底本:「全訳源氏物語 下巻」角川文庫、角川書店
1972(昭和47)年2月25日改版初版発行
1995(平成7)年5月30日40版発行
※「宇治橋の長き契りは朽ちせじをあやぶむ方に心騒ぐな」の歌の前には、底本ではカギ括弧が二つありましたが、一つにしました。
※「薫《かおる》からまたも手紙の使いが来た。病気と聞いて今日はどうかと尋ねて来たのである。」は底本では、2字下げになっていますが、地の文と判断し、字下げ処理は入れませんでした。
※「自身で行きたいのですが、いろいろな用が多
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