ちは皆晴れと思う移転の時の用に物を染めたり、縫い物をしたり、何やかやとそうしたことについて話し合っているが浮舟は耳に聞こうともしない。夜になると人に見つけられずに家を出て行くのはどこをどうして行けばいいかという計画ばかりされて眠れぬために気分も悪く、病人のようになっている浮舟であった。朝になれば川のほうをながめながら「羊の歩み」よりも早く死期の近づいてくることが悲しまれた。
宮からは悲しかった夜のことをお言いになり激情にあふれたお手紙を贈られた。死期に人の見るかもしれぬものであるからと思うと、このお返事にも浮舟は思うだけのことを書かなかった。
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からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん
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とだけ書いて出した。
姫君は大将へも遺書としてのものを書いておきたく思ったが、あちらへもそちらへも書いておいて、親友でおありになる人たちの話に上ることがあれば、情操のないことと思われるかもしれぬ、朧《おぼろ》にぼかしておいて、どうなったかわからぬように自分の消えてしまうのがいいのであると思い返した。
京の使いが母の手紙を持って来た。
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昨夜の悪夢の中であなたを見たものですから、ほうぼうの寺へ誦経《ずきょう》を頼みました。その夢のあとは眠られなかったものですから、今日また昼寝をしました夢に、人が大不吉だという夢の中でまたあなたを見たのです。驚きながらこの手紙を書きます。謹慎日はよく謹慎してお暮らしなさい。寂しいそのお家《うち》へ時々おいでになります大将の関係から、どんな呪《のろい》を受けておいでになるかわからないのにあなたは病気だし、ちょうどこんな時に悪夢が続くので心配しています。私が行きたいのだけれど、少将の妻の産前の容体が不安で、物怪風《もののけふう》に煩っていますから、しばらくでもそばを離れますことは主人がやかましいため出かけられませぬ。そこの近くの寺へも誦経を頼みなさい。
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と書いて、寺へ納めるべき物、寺への依頼状も添えて持たせて来たのであった。
もう死ぬ覚悟をしている自分とも知らずに、こんなに心をつかっているかと浮舟《うきふね》は母の愛を悲しく思った。寺へその使いをやった間に、母への返事を姫君は書くのであった。言いたいことは多かったが気恥ずかしくて、ただ、
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のちにまた逢ひ見んことを思はなんこのよの夢に心まどはで
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とだけ書いた。誦経の初めの鐘の音が川風に混じって聞こえてくるのをつくづくと聞いて浮舟は寝ていた。
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鐘の音《ね》の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ
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これは寺から使いがもらって来た経巻へ書きつけた歌であるが、使いは朝になってから帰るというために木の枝へ結びつけて渡すようにしておいた。乳母《めのと》が、
「何だか胸騒ぎがしてならない。奥様も悪夢をたくさん見ると書いておよこしになったのだから、宿直《とのい》の人によく気をつけるように言いなさい」
と言っているのを、今夜脱出して川へ行こうとする浮舟は迷惑に思って聞いていた。
「お食事の進みませんのはどうしたことでしょう。お湯漬《ゆづ》けでもちょっと召し上がってごらんになりませんか」
などと世話をやくのを、利巧《りこう》ぶっても老人ふうになってしまったこの女は、自分が死んでしまえばどこへ行くであろうと、そんなことも想像して浮舟は悲しかった。もう寿命とは別にこの世から消えて行こうと思っているとほのめかして乳母に言おうとすると、まず自分自身が驚かされて涙の流れるのを隠そうとすれば、それでものが言えなかった。右近が近くへ来て、寝仕度《ねじたく》をしながら、
「あんまり物思いをあそばすと、物思いする魂は身体《からだ》を離れてしまいますから、奥様へも悪い夢になって現われるのでございましょう。どちらか一方へお心をお集めになって、どうにでも成り行きにおまかせなさいませ」
と歎息もしつつ告げた。
柔らかい着物を顔に押し当てるようにして浮舟の姫君は寝たそうである。
底本:「全訳源氏物語 下巻」角川文庫、角川書店
1972(昭和47)年2月25日改版初版発行
1995(平成7)年5月30日40版発行
※「宇治橋の長き契りは朽ちせじをあやぶむ方に心騒ぐな」の歌の前には、底本ではカギ括弧が二つありましたが、一つにしました。
※「薫《かおる》からまたも手紙の使いが来た。病気と聞いて今日はどうかと尋ねて来たのである。」は底本では、2字下げになっていますが、地の文と判断し、字下げ処理は入れませんでした。
※「自身で行きたいのですが、いろいろな用が多
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