、あさましさにそれきりものも言われない。
「今日は高官の方がたくさん伺候なすった日で、こんな時にはお遊びに時間をお忘れになって、こちらへおいでになるのがお遅《おそ》くなるのですものね、いつも皆奥様なども寝《やす》んでおしまいになっていますわね。それにしてもどうすればいいことでしょう。あの乳母《ばあや》が気のききませんことね。私はじっとおそばに見ていて、宮様をお引っ張りして来たいようにも思いましたよ」
 などと右近が少将という女房といっしょに姫君へ同情をしている時、御所から人が来て、中宮が今日の夕方からお胸を苦しがっておいであそばしたのが、ただ今急に御容体が重くなった御様子であると、宮へお取り次ぎを頼んだ。
「あやにくな時の御病気ですこと、お気の毒でも申し上げてきましょう」
 と立って行く右近に、少将は、
「もうだめなことを、憎まれ者になって宮様をお威《おど》しするのはおよしなさい」
 と言った。
「まだそんなことはありませんよ」
 このささやき合いを夫人は聞いていて、なんたるお悪癖であろう、少し賢い人は自分をまであさましく思ってしまうであろうと歎息をしていた。
 右近は西北の座敷へ行き、使いの言葉以上に誇張して中宮の御病気をあわただしげに宮へ申し上げたが、動じない御様子で宮はお言いになった。
「だれが来たのか、例のとおりにたいそうに言っておどすのだね」
「中宮のお侍の平《たいら》の重常《しげつね》と名のりましてございます」
 右近はこう申した。別れて行くことを非常に残念に思召されて、宮は人がどう思ってもいいという気になっておいでになるのであるが、右近が出て行って、西の庭先へお使いを呼び、詳しく聞こうとした時に、最初に取り次いだ人もそこへ来て言葉を助けた。
「中務《なかつかさ》の宮もおいでになりました。中宮大夫もただ今まいられます。お車の引き出されます所を見てまいりました」
 そうしたように発作的にお悪くおなりになることがおりおりあるものであるから、嘘《うそ》ではないらしいと思召すようになった宮は、夫人の手前もきまり悪くおなりになり、女へまたの機会を待つことをこまごまとお言い残しになってお立ち去りになった。
 姫君は恐ろしい夢のさめたような気になり、汗びったりになっていた。乳母は横へ来て扇であおいだりしながら、
「こういう御殿というものは人がざわざわとしていまして、少しも気が許せません。宮様が一度お近づきになった以上、ここにおいでになってよいことはございませんよ。まあ恐ろしい。どんな貴婦人からでも嫉妬《しっと》をお受けになることはたまらないことですよ。全然別な方にお愛されになるとも、またあとで悪くなりましてもそれは運命としてお従いにならなければなりません。宮様のお相手におなりになっては世間体も悪いことになろうと思いまして、私はまるで蝦蟇《がま》の相になってじっとおにらみしていますと、気味の悪い卑しい女めと思召して手をひどくおつねりになりましたのは匹夫の恋のようで滑稽《こっけい》に存じました。お家《うち》のほうでは今日もひどい御夫婦|喧嘩《げんか》をあそばしたそうですよ。ただ一人の娘のために自分の子供たちを打ちやっておいて行った。大事な婿君のお来始めになったばかりによそへ行っているのは不都合だなどと、乱暴なほどに守はお言いになりましたそうで、下《しも》の侍でさえ奥様をお気の毒だと言っていました。こうしたいろいろなことの起こるのも皆あの少将さんのせいですよ。利己的な結婚|沙汰《ざた》さえなければ、おりおり不愉快なことはありましてもまずまず平和なうちに今までどおりあなた様もおいでになれたのですがね」
 歎息をしながら乳母はこう言うのであった。
 姫君の身にとっては家のことなどは考える余裕もない。ただ闖入者《ちんにゅうしゃ》が来て、経験したこともない恥ずかしい思いを味わわされたについても、中の君はどう思うことであろうと、せつなく苦しくて、うつ伏しになって泣いていた。見ている乳母は途方に暮れて、
「そんなにお悲しがりになることはございませんよ。お母様のない人こそみじめで悲しいものなのですよ。ほかから見れば父親のない人は哀れなものに思われますが、性質の悪い継母《ままはは》に憎まれているよりはずっとあなたなどはお楽なのですよ。どうにかよろしいように私が計らいますからね、そんなに気をめいらせないでおいでなさいませ。どんな時にも初瀬《はせ》の観音がついてあなたを守っておいでになりますからね、観音様はあなたをお憐《あわれ》みになりますよ。お参りつけあそばさない方を、何度も続けてあの山へおつれ申しましたのも、あなたを軽蔑《けいべつ》する人たちに、あんな幸運に恵まれたかと驚かす日に逢《あ》いたいと念じているからでしたよ。あなたは人笑われなふうでお終わりになる方なものですか」
 と言い、楽観させようと努めた。
 宮はすぐお出かけになるのであった。そのほうが御所へ近いからであるのか西門のほうを通ってお行きになるので、ものをお言いになるお声が姫君の所へ聞こえてきた。上品な美しいお声で、恋愛の扱われた故《ふる》い詩を口ずさんで通ってお行きになることで、煩わしい気持ちを姫君は覚えていた。お替え馬なども引き出して、お付きして宿直《とのい》を申し上げる人十数人ばかりを率いておいでになった。
 中の君は姫君がどんなに迷惑を覚えていることであろうとかわいそうで、知らず顔に、
「中宮《ちゅうぐう》様の御病気のお知らせがあって、宮様は御所へお上がりになりましたから、今夜はお帰りがないと思います。髪を洗ったせいですか、気分がよくなくてじっとしていますが、こちらへおいでなさい。退屈でもあるでしょう」
 と言わせてやった。
「ただ今は身体《からだ》が少し苦しくなっておりますから、癒《なお》りましてから」
 姫君からは乳母を使いにしてこう返事をして来た。どんな病気かとまた中の君が問いにやると、
「何ということはないのですが、ただ苦しいのでございます」
 とあちらでは言った。少将と右近とは目くばせをして、夫人は片腹痛く思うであろうと言っているのは姫君のために気の毒なことである。
 夫人は心で残念なことになった、薫《かおる》が相当熱心になって望んでいた妹であったのに、そんな過失をしたことが知れるようになれば軽蔑《けいべつ》するであろう、宮という放縦なことを常としていられる方は、ないことにも疑念を持ちうるさくお責めにもなるが、また少々の悪いことがあってもぜひもないようにおあきらめになりそうであるが、あの人はそうでなく、何とも言わないままで情けないことにするであろうのを思うと、妹はどんなに気恥ずかしいことかしれぬ、運命は思いがけぬ憂苦を妹に加えることになった、長い間見ず知らずだった人なのであるが、逢《あ》って見れば性質も容貌《ようぼう》もよく、愛せずにはいられなくなった妹であったのに、こんなことが起こってくるとはなんたることであろう、人生とは複雑にむずかしいものである、自分は今の身の上に満足しているものではないが、妹のような辱《はずか》しめもあるいは受けそうであった境遇にいたにもかかわらず、そうはならずに正しく人の妻になりえた点だけは幸福と言わねばなるまい、もう自分は薫が恋をさえ忘れてくれて、以前の友情でつきあって行けることになれば、何も深く憂えずに暮らす女になろうと思った。多い髪であるから、急にはかわかしきれずにすわっていねばならぬのが苦しかった。白い服を一重だけ着ている中の君は繊細《きゃしゃ》で美しい。
 姫君はほんとうに身体が苦しくなっていたのであるが、乳母は、
「そんなふうにしておいでになっては、痛くない腹をさぐられます。何か事のあったように女王《にょおう》様はお思いになっていらっしゃるかもしれませんから、ただおおようなふうにしてあちらへいらっしゃいませ。右近さんなどには事実を初めからお話しいたしますよ」
 と言い、しいて促し立てておき、夫人の居室《いま》の襖子《からかみ》の前へまで行き、
「右近さんにちょっとお話しいたしたいことが」
 と言った。出て来たその人に、
「御|冗談《じょうだん》をなさいました方様のために、お姫様は驚いて気もお失いになるばかりなのですよ。ほんとうのひどい目にでもおあいになった人のように苦しいふうをお見せになるのでお気の毒でなりません。奥様から慰めてあげていただきたいと私はお願いに出たのでございます。過失もなさいませんでしたのに、恥ずかしくてならぬように思召すのもお道理でございますよ。異性のことがよくわかっておいでになる方であれば、これは何でもないことだとおわかりになるのでしょうが、そうでないところに純粋なところも持っていらっしゃるのだと拝見しています」
 と言っておき、姫君を引き起こして夫人の所へ伴って行くのであった。人のするままに任せて、他人がどんな想像をしているだろうと思うことに羞恥《しゅうち》は覚えるのであるが、柔らかなおおよう過ぎたほどの性質の人であったから、乳母に押し出されて夫人の居間の中へはいった。額髪などの汗と涙でひどく濡《ぬ》れたのを隠したく思い、灯《あかり》のほうから顔をそむけた姫君は、夫人をこれ以上の美人はないと常にながめている女房たちが見て、劣ったふうもなく、貴女《きじょ》らしく美しい、宮がこの方をお愛しになるようになったら気まずいことを見ることになろう、これほどの人でなくても、新しい人をお喜びになる宮の御性質であるからと、夫人に侍していた二人ほどの女房は、姫君の隠しきれない顔を見て思っていた。中の君はなつかしいふうで話していて、
「あなたの家と違った所だとここを思わないでいらっしゃいよ。お姉様がお亡《かく》れになってから、私は姉様のことばかりが思われて、忘れることなどは少しもできなくてね、自分の運命ほど悲しいものはないと思って暮らしていたのですがね、あなたという姉様によく似た人を見ることができるようになって、ずいぶん慰められてますよ。私にはほかにあなたのような妹はないのですから、お父様の御愛情を私から受け取る気になってくだすったらうれしいだろうと思います」
 などとも夫人は語るのであったが、宮から愛のささやきをお受けした心のひけ目がある上に、よい環境に置かれていなかった人は、姉君に応じて何もものが言えないというふうがあって、
「長い間とうていおそばなどへまいれるものでないと思っていましたのに、こんなに御親切にいろいろとしていただけるのですもの、どんなことも皆慰められる気がいたします」
 とだけ、少女《おとめ》らしい声で言った。夫人が絵などを出させて、右近に言葉書きを読ませ、いっしょに見ようとすると、姫君は前へ出て、恥じてばかりもいず熱心に見いだした灯影《ひかげ》の顔には何の欠点もなく、どこも皆美しくきれいであった。清い額つきがにおうように思われて、おおような貴女《きじょ》らしさには総角《あげまき》の姫君がただ思い出されるばかりであったから、夫人は絵のほうはあまり目にとめず、身にしむ顔をした人である、どうしてこうまで似ているのであろう、大姫君は宮に、自分は母君に似ていると古くからいる女房たちは言っていたようである、よく似た顔というものは人が想像もできぬほど似ているものであると、故人に思い比べられて夫人は姫君を涙ぐんでながめていた。故人は限りもなく上品で気高《けだか》くありながら柔らかな趣を持ち、なよなよとしすぎるほどの姿であった。この人はまだ身のこなしなどに洗練の足らぬところがあり、また遠慮をすぎるせいか美しい趣は劣って見える、重々しいところを加えさせるようにすれば大将の妻の一人になっても不似合いには見えまいなどと、姉心になって気もつかっている中の君であった。話し合って夜明け近くまでなってから寝《やす》んだのであるが、夫人はそばへ寝させて、父宮についてお亡《かく》れになるまでの御様子などを、ことごとくではないが話して聞かせた。聞けば聞くほど恋しく、ついにお逢いすることがなく終わったことをくやしく悲しく姫君は思った。
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