などはましてだれもお許しにならないのをかってに拾ったにすぎない」
こんなことを言った。夫人の宮はそのとおりであったことがお恥ずかしくて返辞をあそばすこともできなかった。
三日目の夜は大蔵卿《おおくらきょう》を初めとして、女二の宮の後見に帝のあてておいでになる人々、宮付きの役人に仰せがあって、右大将の前駆の人たち、随身、車役、舎人《とねり》にまで纏頭《てんとう》を賜わった。普通の家の新郎の扱い方に少しも変わらないのであった。それからのちは忍び忍びに藤壺へ薫は通って行った。心の中では昔のこと、昔にゆかりのある人のことばかりが思われて、昼はひねもす物思いに暮らして、夜になるとわが意志でもなく女二の宮をお訪ねに行くのも、そうした習慣のなかった人であるからおっくうで苦しく思われる薫は、御所から自邸へ宮をお迎えしようと考えついた。そのことを尼宮はうれしく思召《おぼしめ》して、御自身のお住居《すまい》になっている寝殿を全部新婦の宮へ譲ろうと仰せになったのであるが、それはもったいないことであると薫は言って、自身の念誦《ねんず》講堂との間に廊を造らせていた。西側の座敷のほうへ宮をお迎えするつもりらしい。東の対なども焼けてのちにまたみごとな建築ができていたのをさらに設備を美しくさせていた。薫のそうした用意をしていることが帝のお耳にはいり、結婚してすぐに良人《おっと》の家へはいるのはどんなものであろうと不安に思召されるのであった。帝も子をお愛しになる心の闇《やみ》は同じことなのである。尼宮の所へ勅使がまいり、お手紙のあった中にも、ただ女二の宮のことばかりが書かれてあった。お亡《な》くなりになった朱雀院が特別にこの尼宮を御援助になるようにと遺託しておありになったために、出家をされたのちでも二品《にほん》内親王の御待遇はお変えにならず、宮からお願いになることは皆御採用になるというほどの御好意を帝は示しておいでになったのである。こうした最高の方を舅君《しゅうとぎみ》とし、母宮として、たいせつにお扱われする名誉もどうしたものか薫の心には特別うれしいとは思われずに、今もともすれば物思い顔をしていて、宇治の御堂の造営を大事に考えて急がせていた。
兵部卿の宮の若君の五十日になる日を数えていて、その式用の祝いの餠《もち》の用意を熱心にして、竹の籠《かご》、檜《ひのき》の籠などまでも自身で考案した。
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