申した。夜明け前のまたちょっと暗くなる時間であって、霧が立ち、空の色が冷ややかに見え、月は霧にさえぎられて木立ちの下も暗く艶《えん》な趣のあるようになった。そのために薫はまた宇治が恋しくなった。宮が、
「今度あなたが行く時に必ず誘ってください。うちやって行ってはいけませんよ」
とお言いになっても、薫の迷惑そうにしているのを御覧になって、
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女郎花《をみなへし》咲ける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結《ゆ》ふらん
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とお言いになった、冗談《じょうだん》のように。
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「霧深きあしたの原の女郎花心をよせて見る人ぞ見る
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だれでも見られるわけではありませんから」
などと薫も言った。
「うるさいことを言うね」
腹をたててもお見せになる宮様であった。今までから宮のこの御希望はしばしばお聞きしていたのであるが、中の君をよくは知らず、交際をせぬ薫であったから、不安さがあって、容貌《ようぼう》は御想像どおりであっても、性情などに近づいて物足りなさをお感じになることはあるまいかとあやぶんで、お聞き入れ申し上げなかったのである。思いもよらずその人に近づいたことによって、今は不安も心からぬぐわれた薫は、大姫君がわざわざ謀って身代わりにさせようとした気持ちを無視することも思いやりのないことではあるが、そのようにたやすく恋は改めうるものとは思われない心から、まずその人は宮にお任せしよう、そして女の恨みも宮のお恨みも受けぬことにしたいとこう思い決めたともお知りにならず、自分がはばんでいるようにお言いになるのがおかしかった。
「あなたには多情な癖がおありになるのですからね、結局物思いをさせるだけだと考えられますからです」
女がたの後見者と見せて薫がこう言う。
「まあ見ていたまえ、私にはまだこんなに心の惹《ひ》かれた相手はなかったのだからね」
宮はまじめにこう仰せられた。
「女王がたにはまだあなたさまを婿君にお迎えする心がなさそうなものですから、私の役は苦心を要するのでございますよ」
と言って、薫は山荘へ御案内して行ってからのことをこまごまと御注意申し上げていた。
二十六日の彼岸の終わりの日が結婚の吉日になっていたから、薫はいろいろと考えを組み立てて、だれの目にもつかぬように一人で計らい、兵部卿の宮を宇治へお伴いして出かけた。御母|中宮《ちゅうぐう》のお耳にはいっては、こうした恋の御微行などはきびしくお制しになり、おさせにならぬはずであったから、自分の立場が困ることになるとは思うのであるが、匂宮《におうみや》の切にお望みになることであったから、すべてを秘密にして扱うのも苦しかった。
対岸のしかるべき場所へ御休息させておくことも船の渡しなどがめんどうであったから、山荘に近い自身の荘園の中の人の家へひとまず宮をお降ろしして、自身だけで女王たちの山荘へはいった。宮がおいでになったところで見とがめるような人たちもなく、宿直《とのい》をする一人の侍だけが時々見まわりに外へ出るだけのことであったが、それにも気《け》どらすまいとしての計らいであった。中納言がおいでになったと山荘の女房たちは皆緊張していた。女王《にょおう》らは困る気がせずにおられるのではないが、総角の姫君は、自分はもうあとへ退《の》いて代わりの人を推薦しておいたのであるからと思っていた。中の君は薫の対象にしているのは自分でないことが明らかなのであるから、今度はああした驚きをせずに済むことであろうと思いながらも、情けなく思われたあの夜からは、姉君をも以前ほどに信頼せず、油断をせぬ覚悟はしていた。取り次ぎをもっての話がいつまでもかわされていることで、今夜もどうなることかと女房らは苦しがった。
薫は使いを出して兵部卿の宮を山荘へお迎え申してから、弁を呼んで、
「姫君にもう一言だけお話しすることが残っているのです。あの方が私の恋に全然取り合ってくださらないのはもうわかってしまいました。それで恥ずかしいことですが、この間の方の所へもうしばらくのちに私を、あの時のようにして案内して行ってくださいませんか」
真実《まこと》らしく薫がこう言うと、どちらでも結局は同じことであるからと弁は心を決めて、そして大姫君の所へ行き、そのとおりに告げると、自分の思ったとおりにあの人は妹に恋を移したとうれしく、安心ができ、寝室へ行く通り路《みち》にはならぬ縁近い座敷の襖子《からかみ》をよく閉《し》めた上で、その向こうへしばらく語るはずの薫を招じた。
「ただ一言申し上げたいのですが、人に聞こえますほどの大声を出すこともどうかと思われますから、少しお開《あ》けくださいませんか。これではだめなのです」
「これでもよくわかるのですよ」
と言って姫君は応じない。愛人を新しくする際に虚心平気でそれをするのでないことをこの人は言おうとするのであろうか、今までからこんなふうにしては話し合った間柄なのだから、あまり冷ややかにものを言わぬようにして、そして夜をふかさせずに立ち去らしめようと思い、この席を姫君は与えたのであったが、襖子の間から女の袖《そで》をとらえて引き寄せた薫は、心に積もる恨みを告げた。困ったことである、話すことをなぜ許したのであろうと後悔がされ、恐ろしくさえ思うのであるが、上手《じょうず》にここを去らせようとする心から、妹は自分と同じなのであるからということを、それとなく言っている心持ちなどを男は哀れに思った。
兵部卿の宮は薫がお教えしたとおりに、あの夜の戸口によって扇をお鳴らしになると、弁が来て導いた。今一人の女王のほうへこうして薫を導き馴《な》れた女であろうと宮はおもしろくお思いになりながら、ついておいでになり、寝室へおはいりになったのも知らずに、大姫君は上手《じょうず》に中の君のほうへ薫を行かせようということを考えていた。おかしくも思い、また気の毒にも思われて、事実を知らせずにおいていつまでも恨まれるのは苦しいことであろうと薫は告白をすることにした。
「兵部卿の宮様がいっしょに来たいとお望みになりましたから、お断わりをしかねて御同伴申し上げたのですが、物音もおさせにならずどこかへおはいりになりました。この賢ぶった男を上手におだましになったのかもしれません。どちらつかずの哀れな見苦しい私になるでしょう」
聞く姫君はまったく意外なことであったから、ものもわからなくなるほどに残念な気がして、この人が憎く、
「いろいろ奇怪なことをあそばすあなたとは存じ上げずに、私どもは幼稚な心であなたを御信用申していましたのが、あなたには滑稽《こっけい》に見えて侮辱をお与えになったのでございますね」
総角《あげまき》の女王は極度に口惜《くちお》しがっていた。
「もう時があるべきことをあらせたのです。私がどんなに道理を申し上げても足りなくお思いになるのでしたなら、私を打擲《ちょうちゃく》でも何でもしてください。あの女王様の心は私よりも高い身分の方にあったのです。それに宿命というものがあって、それは人間の力で左右できませんから、あの女王さんには私をお愛しくださることがなかったのです。その御様子が見えてお気の毒でしたし、愛されえない自分が恥ずかしくて、あの方のお心から退却するほかはなかったのです。もうしかたがないとあきらめてくだすって私の妻になってくださればいいではありませんか。どんなに堅く襖子は閉《し》めてお置きになりましても、あなたと私の間柄を精神的の交際以上に進んでいなかったとはだれも想像いたしますまい。御案内して差し上げた方のお心にも、私がこうして苦しい悶《もだ》えをしながら夜を明かすとはおわかりになっていますまい」
と言う薫は襖子をさえ破りかねぬ興奮を見せているのであったから、うとましくは思いながら、言いなだめようと姫君はして、なお話の相手はし続けた。
「あなたがお言いになります宿命というものは目に見えないものですから、私どもにはただ事実に対して涙ばかりが胸をふさぐのを感じます。何というなされ方だろうとあさましいのでございます。こんなことが言い伝えに残りましたら、昔の荒唐無稽《こうとうむけい》な、誇張の多い小説の筋と同じように思われることでしょう。どうしてそんなことをお考え出しになったのかとばかり思われまして、私たち姉妹《きょうだい》への御好意とはそれがどうして考えられましょう。こんなにいろいろにして私をお苦しめにならないでくださいまし。惜しくございません命でも、もしもまだ続いていくようでしたら、私もまた落ち着いてお話のできることがあろうと思います。ただ今のことを伺いましたら、急に真暗《まっくら》な気持ちになりまして、身体《からだ》も苦しくてなりません。私はここで休みますからお許しくださいませ」
絶望的な力のない声ではあるが、理窟《りくつ》を立てて言われたのが、薫には気恥ずかしく思われ、またその人が可憐《かれん》にも思われて、
「あなた、私のお愛しする方、どんなにもあなたの御意志に従いたいというのが私の願いなのですから、こんなにまで一徹なところもお目にかけたのです。言いようもなく憎いうとましい人間と私を見ていらっしゃるのですから、申すことも何も申されません。いよいよ私は人生の外へ踏み出さなければならぬ気がします」
と言って薫は歎息《たんそく》をもらしたが、また、
「ではこの隔てを置いたままで話させていただきましょう。まったく顧みをなさらないようなことはしないでください」
こうも言いながら袖《そで》から手を離した。姫君は身を後ろへ引いたが、あちらへ行ってもしまわないのを哀れに思う薫であった。
「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以上のことを求めません」
と言い、襖子を中にしてこちらの室《へや》で眠ろうとしたが、ここは川の音のはげしい山荘である、目を閉じてもすぐにさめる。夜の風の声も強い。峰を隔てた山鳥の妹背《いもせ》のような気がして苦しかった。いつものように夜が白《しら》み始めると御寺《みてら》の鐘が山から聞こえてきた。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮を気にして咳《せき》払いを薫《かおる》は作った。実際妙な役をすることになったものである。
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「しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道
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こんな例が世間にもあるでしょうか」
と薫が言うと、
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かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば
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ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、
「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」
恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は昨夜《ゆうべ》の戸口から外へおいでになった。柔らかなその御動作に従って立つ香はことさら用意して燻《た》きしめておいでになった匂宮らしかった。
老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の計ったことであれば安心していてよいと考えていた。
暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。たやすく常に行かれぬことを今から思召《おぼしめ》すからである。しかも「夜をや隔てん」(若草の新手枕《にひてまくら》をまきそめて夜をや隔てん憎からなくに)とお思われになるからであろう。まだ人の多く出入りせぬころに車は六条院に着けられ、廊のほうで降りて、女乗りの車と見せ隠れるようにしてはいって来たあとで顔を見合わせて笑った。
「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」
宮はこう冗談《じょうだん》を仰せられた。自身の愚かしさの人のよさがみずから嘲笑《ちょうしょう》されるのであるが、薫は昨夜の始末を何も申し上げなかった。すぐ宮は文《ふみ》を書いて宇治へお送りになった。
山荘の女王はどちらも夢を見
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