なりました。私は情けない長命《ながいき》をいたしまして、悲しい目にあいますより前に死にたいと念じているのでございます」
 と言い終えることもできぬように泣くのが道理に思われた。
「なぜそれをどなたもどなたも私へ知らせてくださらなかったのですか。冷泉《れいぜい》院のほうにも御所のほうにもむやみに御用の多い幾日だったものですから、私のほうの使いも出しかねていた間に、ずいぶん御心配していたのです」
 と言って、この前の病室にすぐ隣った所へはいって行った。枕《まくら》に近い所に坐《ざ》して薫はものを言うのであったが、声もなくなったようで姫君の返辞を聞くことができない。
「こんなに重くおなりになるまで、どなたもおしらせくださらなかったのが恨めしい。私がどんなに御心配しているかが、皆さんに通じなかったのですか」
 と言い、まず御寺《みてら》の阿闍梨《あじゃり》、それから祈祷《きとう》に効験のあると言われる僧たちを皆山荘へ薫は招いた。祈祷と読経《どきょう》を翌日から始めさせて、手つだいの殿上役人、自家の侍たちが多く呼び寄せられ、上下の人が集まって来たので、前日までの心細げな山荘の光景は跡もなく、頼もしく見られる家となった。日が暮れると例の客室へ席を移すことを女房たちは望み、湯漬《ゆづ》けなどのもてなしをしようとしたのであるが、来ることのおくれた自分は、今はせめて近い所にいて看病がしたいと薫は言い、南の縁付きの室《ま》は僧の室《へや》になっていたから、東側の部屋《へや》で、それよりも病床に密接している所に屏風《びょうぶ》などを立てさせてはいった。これを中の君は迷惑に思ったのであるが、薫と姫君との間柄に友情以上のものが結ばれていることと信じている女房たちは、他人としては扱わないのであった。
 初夜から始めさせた法華経《ほけきょう》を続けて読ませていた。尊い声を持った僧の十二人のそれを勤めているのが感じよく思われた。灯《ひ》は僧たちのいる南の室《ま》にあって、内側の暗くなっている病室へ薫はすべり入るようにして行って、病んだ恋人を見た。老いた女房の二、三人が付いていた。中の君はそっと物蔭《ものかげ》へ隠れてしまったのであったから、ただ一人床上に横たわっている総角《あげまき》の病女王のそばへ寄って薫は、
「どうしてあなたは声だけでも聞かせてくださらないのですか」
 と言って、手を取った。
「心ではあなたのおいでになったことがわかっていながら、ものを言うのが苦しいものですから失礼いたしました。しばらくおいでにならないものですから、もうお目にかかれないままで死んで行くのかと思っていました」
 息よりも低い声で病者はこう言った。
「あなたにさえ待たれるほど長く出て来ませんでしたね、私は」
 しゃくり上げて薫は泣いた。この人の頬《ほお》に触れる髪の毛が熱で少し熱くなっていた。
「あなたはなんという罪な性格を持っておいでになって、人をお悲しませになったのでしょう。その最後にこんな病気におなりになった」
 耳に口を押し当てていろいろと薫が言うと、姫君はうるさくも恥ずかしくも思って、袖《そで》で顔をふさいでしまった。平生よりもなおなよなよとした姿になって横たわっているのを見ながら、この人を死なせたらどんな気持ちがするであろうと胸も押しつぶされたように薫はなっていた。
「毎日の御|介抱《かいほう》が、御心配といっしょになってたいへんだったでしょう。今夜だけでもゆっくりとお休みなさい。私がお付きしていますから」
 見えぬ蔭にいる中の君に薫がこう言うと、不安心には思いながらも、何か直接に話したいことがあるのであろうと思って、若い女王《にょおう》は少し遠くへ行った。真向《まっこ》うへ顔を持ってくるのでなくても、近く寄り添って来る薫に、大姫君は羞恥《しゅうち》を覚えるのであったが、これだけの宿縁はあったのであろうと思い、危険な線は踏み越えようとしなかった同情の深さを、今一人の男性に比べて思うと、一種の愛はわく姫君であった。死んだあとの思い出にも気強く、思いやりのない女には思われまいとして、かたわらの人を押しやろうとはしなかった。
 一夜じゅうかたわらにいて、時々は湯なども薫は勧めるのであったが、少しもそれは聞き入れなかった。悲しいことである、この命をどうして引きとめることができるであろうと薫は思い悩むのであった。不断経を読む僧が夜明けごろに人の代わる時しばらく前の人と同音に唱える経声が尊く聞こえた。阿闍梨《あじゃり》も夜居《よい》の護持僧を勤めていて、少し居眠りをしたあとでさめて、陀羅尼《だらに》を読み出したのが、老いたしわがれ声ではあったが老巧者らしく頼もしく聞かれた。
「今夜の御様子はいかがでございますか」
 などと阿闍梨は薫に問うたついでに、
「宮様はどんな所においでになりましょう。必ずもう清浄な世界においでになると私は思っているのですが、先日の夢にお見上げすることができまして、それはまだ俗のお姿をしていられまして、人生を深くいとわしい所と信じていたから、執着の残ることは何もなかったのだが、少し心配に思われる点があって、今しばらくの間志す所へも行きつかずにいるのが残念だ。こうした私の気持ちを救うような方法を講じてくれとはっきりと仰せられたのですが、そうした場合に速く何をしてよろしいか私にはよい考えが出ないものですから、ともかくもできますことでと思いまして、修行の弟子《でし》五、六人にある念仏を続けさせております。それからまた気づきまして常不軽《じょうふきょう》の行ないに弟子を歩かせております」
 こんなことを言うのを聞いて薫は非常に泣いた。父君の成仏《じょうぶつ》の道の妨げをさえしているかと病女王もそれを聞いて、そのまま息も絶えんばかりに悲しんだ。ぜひとも父君がまだ冥府《めいふ》の道をさまよっておいでになるうちに自分も行って、同じ所へまいりたいと思うのであった。阿闍梨は多く語らずに座を立って行った。
 この常不軽の行《ぎょう》はこの辺の村々をはじめとして、京の町々にまでもまわって家々の門《かど》に額を突く行であって、寒い夜明けの風を避けるために、師の阿闍梨《あじゃり》のまいっている山荘へはいり、中門の所へすわって回向《えこう》の言葉を述べているその末段に言われることが、故人の遺族の身にしみじみとしむのであった。客である中納言も仏に帰依する人であったから、これも泣きながら聞いていた。
 中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの几帳《きちょう》の蔭に来ている気配《けはい》を薫は知り、居ずまいを正して、
「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊いものですね」
 と言い、また、

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霜さゆる汀《みぎは》の千鳥うちわびて鳴く音《ね》悲しき朝ぼらけかな
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 これをただ言葉のようにして言った。
 恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。

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あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る
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 あまりに似合わしくない代わり役であったが、つたなくもない声《こわ》づかいで弁はこの役を勤めた。こうした言葉の贈答にも、遠慮深くはありながらなつかしい才気のにおいの覚えられるこの女王とも、姉女王を死が奪ったあとではよそよそになってしまわねばならぬではないか、何もかも失うことになればどんな気がするであろうと薫は恐ろしいことのようにさえ思った。阿闍梨の夢に八の宮が現われておいでになったことを思っても、このいたましい二人の女王があの世からお気がかりにお見えになることかもしれぬと思われる薫は、山の御寺《みてら》へも誦経《ずきょう》の使いを出し、そのほかの所々へも読経《どきょう》をさせる使いをすぐに立てた。宮廷のほうへも、私邸のほうへもお暇《いとま》を乞《こ》い、神々への祭り、祓《はらい》までも隙《ひま》なくさせて姫君の快癒《かいゆ》のみ待つ薫であったが、見えぬ罪により得ている病ではないのであったから、効験は現われてこなかった。病者自身が、生かせてほしいと仏に願っておればともかくであるが、女王にすれば、病になったのを幸いとして死にたいと念じていることであるから、祈祷《きとう》の効目《ききめ》もないわけである。死ぬほうがよい、中納言がこうしてつききりになっていて介抱《かいほう》をされるのでは、癒《なお》ったあとの自分はその妻になるよりほかの道はない、そうかといって、今見る熱愛とのちの日の愛情とが変わり、自分も恨むことになり、煩悶《はんもん》が絶えなくなるのはいとわしい。もしこの病で死ぬことができなかった場合には、病身であることに託して尼になろう、そうしてこそ互いの愛は永久に保たれることになるのであるから、ぜひそうしなければならぬと姫君は深く思うようになって、死ぬにしても、生きるにしても出家のことはぜひ実行したいと考えるのであるが、そんな賢げに聞こえることは薫に言い出されなくて、中の君に、
「私の病気は癒るのでないような気がしますからね、仏のお弟子《でし》になることによって、命の助かる例もあると言いますから、あなたからそのことを阿闍梨に頼んでください」
 こう言ってみた。皆が泣いて、
「とんでもない仰せでございます。あんなに御心配をしていらっしゃいます中納言様がどれほど御落胆あそばすかしれません」
 だれもこんなことを言って、唯一の庇護者《ひごしゃ》である薫《かおる》にこの望みを取り次ごうとしないのを病女王は残念に思っていた。
 女王の病のために薫が宇治に滞在していることを、それからそれへと話に聞き、慰問にわざわざ来る人もあった。深く愛している様子を察している部下の人、家職の人たちはいろいろの祈祷を依頼しにまわるのに狂奔していた。
 今日は五節《ごせち》の当日であると薫は京を思いやっていた。風がひどくなり、雪もあわただしく降り荒れていた。京の中の天気はこんなでもあるまいがと切実に心細さを感じていた薫は、この人と夫婦になれずに終わるのであろうかと考えられる点に、運命の恨めしさはあったが、そんなことは今さら思うべきでない、なつかしい可憐《かれん》なふうで、ただしばらくでも以前のように思うことの言い合える時があればいいのであるがと物思わしくしていた。明るくならないままで日が暮れた。

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かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな
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 薫の歌である。この人のいてくれるのをだれも力に頼んでいた。
 いつもの近い席に薫がいる時に、几帳《きちょう》などを風が乱暴に吹き上げるため中の君は向こうのほうへはいった。老いた女房などもきまり悪がって隠れてしまった間に、近々と病床へ薫は寄って、
「どんな御気分ですか、私が精神を集中して快くおなりになるのを祈っているのに、その効《かい》がなくて、もう声すら聞かせていただけなくなったのは悲しいことじゃありませんか。私をあとに残して行っておしまいになったらどんなに恨めしいでしょう」
 泣く泣くこう言った。もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知って袖《そで》で顔をよく隠していた。
「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」
 薫を深く憐《あわれ》むふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどうしようもなかった。自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、と思って見つめる薫であったが、いよいよ可憐《かれん》で、美しい点ばかりが
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