諾はしたのであった。
 仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには御簾《みす》へ屏風《びょうぶ》を添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、
「少し疲れていて失礼な恰好《かっこう》をしていますから」
 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐《ゆうげ》に代えて供えられてあった。従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋《へや》にその人たちは集められていて、こちらを静かにさせておき、客は女王と話をかわしていた。打ち解けた様子はないながらになつかしく愛嬌《あいきょう》の添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫はみずから感じていた。この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言であった。女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、御仏《みほとけ》の灯《ひ》もかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも出て来る様子がない。
「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」
 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。
「遠く山路《やまみち》を来ました者はあなた以上に身体《からだ》が悩ましいのですが、話を聞いていただくことができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちらへおいでになっては心細いではありませんか」
 薫はこう言って屏風《びょうぶ》を押しあけてこちらの室《へや》へ身体《からだ》をすべり入らせた。恐ろしくて向こうの室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、
「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」
 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。
「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」
 こう言って、薫は感じのいいほどな灯《ひ》のあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってやりながら見た顔は、想像していたように艶麗《えんれい》であった。何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入《ちんにゅう》したとすれば、このままで置くはずもなく、たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安とせずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐《かれん》で、これ以上の何の行為もできない。こんなふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手《じょうず》になだめていた。
「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」
 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影《ほかげ》で見られるのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。
「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお叱《しか》りなさいますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなかろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、かえって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」
 薫はそれに続いてあの琵琶《びわ》と琴の合奏されていた夜の有明月《ありあけづき》に隙見《すきみ》をした時のことを言い、それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多くの言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えられぬ羞恥《しゅうち》を覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間|表面《うわべ》をあくまでも冷静に作っていたのであるかと、身にしみ入る気もするのであった。薫はその横にあった短い几帳《きちょう》で御仏のほうとの隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、樒《しきみ》の香も室に満ちている所であったから、だれよりも求道《ぐどう》心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなくても身にしむものの多いものであるのに、まして峰の嵐《あらし》も、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてここは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。
 宵《よい》を早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆|部屋《へや》のほうへ行ってしまった。召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の河音《かわおと》とともに多くの涙が流れるのであった。そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り咳《ぜき》の音を立て、幾つの馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えていた。
 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子《からかみ》をあけて、身にしむ秋の空を二人でながめようとした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人とも艶《えん》な容姿の男女であった。
「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」
 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。
「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」
 と女は言った。外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。黎明《れいめい》の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。
「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似《まね》は決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護《まも》ろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」
 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、
「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝《けさ》だけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」
 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。
「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り路《みち》に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」
 薫《かおる》が幾度も歎息《たんそく》をもらしている時に、鶏もどちらかのほうで遠声ではあるが幾度も鳴いた。京のような気がふと薫にした。

[#ここから2字下げ]
山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな
[#ここで字下げ終わり]

 姫君はそれに答えて、

[#ここから2字下げ]
鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり
[#ここで字下げ終わり]

 と言った。姫君の居間の襖子《からかみ》の口まで送って行った。そして中の間を昨夜《ゆうべ》はいった戸口から客室のほうへ出て薫は横になったが、もとより眠りは得られない。別れて来た人が恋しくて、こんなにも思われるなら今まで気長な態度がとれなかったはずであるとも歎かれて、京へ帰る気もしないのであった。
 姫君は人がどんな想像をしているかと思うのが恥ずかしくて、すぐにも枕《まくら》へつくことはできなかった。いろいろな思いが女王の胸にわく。親のない娘の心細さにつけこむような女房の取り次いでくる幾件かの縁談、その青年たちが今一歩思いやりのないことを進めた時に、自分はどうなるであろうと、心にもなく、人の妻になってしまう運命が自分を待っているのであろうと、いろいろにも考え合わせてみれば、薫は良人《おっと》として飽き足らぬところはなく、父宮も先方にその希望があればと、そんなことを時々お洩《も》らしになったようであった。けれども自分はやはり独身で通そう、自分よりも若く、盛りの美貌《びぼう》を持っていて、この境遇に似合わしくなく、いたましく見える中の君に薫を譲って、人並みな結婚をさせることができればうれしいことであろう、自分のことでなくなれば力の及ぶかぎりの世話を結婚する中の君のためにすることができよう、自分が結婚するのではだれがそうした役を勤めてくれよう、親もない、姉もない。薫が今少し平凡な男であれば、長く持ち続けられた好意に対してむくいるために、妻になる気が起きたかもしれぬ。けれどあの人はそうでない、あまりにすぐれた男である、気品が高く近づきにくいふうもあるではないか、自分には不似合いに思われてならぬ、自分は今までどおりの寂しい運命のままで一人いようと、思い続けて朝まで泣いていたあとの身体《からだ》のぐあいがよろしくなくて、中姫君の寝ている帳台の奥のほうへはいって横になった。
 昨夜は平常とは変わっておそくまで話し声がするのを怪しく思いながら、中の君は寝入ったのであったから、大姫君のこうして来たのがうれしくて、夜着を姉の上へ掛けようとした時に、高いにおいがくゆりかかるように立つのを知った。あの宿直《とのい》の侍が衣服をもらって、困りきった薫のにおいであることが思い合わされて、男の熱情と力に姉君が負けたというようなこともあったであろうかと気の毒で、それからまたよく眠りに入ったようにして何も言わなかった。
 薫は朝になって
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング