します」
と薫が言って、立った時に宮の行っておいでになる寺の鐘がかすかに聞こえてきた。霧はますます濃くなっていて、宮のおいでになる場所と山荘の隔たりが物哀れに感ぜられた。薫は姫君たちの心持ちを思いやって同情の念がしきりに動くのだった。二人とも引っ込みがちに内気なふうになるのも道理であるなどと思われた。
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「朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし槙《まき》の尾山は霧こめてけり
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心細いことです」
と言って、またもとの席に帰って、川霧をながめている薫は、優雅な姿として都人の中にも定評のある人なのであるから、まして山荘の人たちの目はどれほど驚かされたかもしれない。
だれも皆恥じて取り次ぐことのできないふうであるのを見て、大姫君がまたつつましいふうで自身で言った。
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雲のゐる峰のかけぢを秋霧のいとど隔つる頃《ころ》にもあるかな
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そのあとで歎息《たんそく》するらしい息づかいの聞こえるのも非常に哀れであった。若い男の感情を刺激するような美しいものなどは何もない山荘ではあるが、こうした心苦しさから辞し去ることが躊躇《ちゅうちょ》される薫であった。しかも明るくなっていくことは恐ろしくて、
「お近づきしてかえってまた飽き足りません感を与えられましたが、もう少しおなじみになりましてからお恨みも申し上げることにしましょう。お恨みというのは形式どおりなお取り扱いを受けましたことで、誠意がわかっていただけなかったことです」
こんな言葉を残したままあちらへ行った。そして宿直《とのい》の侍が用意してあった西向きの座敷のほうで休息した。
「網代《あじろ》に人がたくさん寄っているようだが、しかも氷魚《ひお》は寄らないようじゃないか、だれの顔も寂しそうだ」
などと、たびたび供に来てこの辺のことがよくわかるようになっている薫の供の者は庭先で言っている。貧弱な船に刈った柴《しば》を積んで川のあちらこちらを行く者もあった。だれも世を渡る仕事の楽でなさが水の上にさえ見えて哀れである。自分だけは不安なく玉の台《うてな》に永住することのできるようにきめてしまうことは不可能な人生であるなどと薫は考えるのであった。薫は硯《すずり》を借りて奥へ消息を書いた。
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橋姫の心を汲《く》みて高瀬さす棹《さを》の雫《しづく》に袖《そで》ぞ濡《ぬ》れぬる
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寂しいながめばかりをしておいでになるのでしょう。
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そしてこれを侍に持たせてやった。その男は寒そうに鳥肌《とりはだ》になった顔で、女王の居間のほうへ客の手紙を届けに来た。返事を書く紙は香の焚《た》きこめたものでなければと思いながら、それよりもまず早くせねばと、
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さしかへる宇治の川長《かはをさ》朝夕の雫や袖をくたしはつらん
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身も浮かぶほどの涙でございます。
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大姫君は美しい字でこう書いた。こんなことも皆ととのった人であると薫は思い、心が多く残るのであったが、
「お車が京からまいりました」
と言って、供の者が促し立てるので、薫は侍を呼んで、
「宮様がお帰りになりますころにまた必ずまいります」
などと言っていた。濡れた衣服は皆この侍に与えてしまった。そして取り寄せた直衣《のうし》に薫は着がえたのであった。
薫は帰ってからも宇治の老女のした話が気にかかった。また姫君たちの想像した以上におおような、柔らかい感じのする美しい人であった面影が目に残って、捨て去ることは容易でない人生であることが心弱く思われもした。薫は消息を宇治の姫君へ書くことにした。それは恋の手紙というふうでもなかった。白い厚い色紙に、筆を撰《えら》んで美しく書いた。
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突然に伺った者が多く語り過ぎると思召《おぼしめ》さないかと心がひけまして、何分の一もお話ができませんで帰りましたのは苦しいことでした。ちょっと申し上げましたように、今後はお居間の御簾の前へ御安心くだすって私の座をお与えください。お山ごもりがいつで終わりますかを承りたく思います。そのころ上がりまして、宮様にお目にかかれませんでした心を慰めたく存じております。
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などとまじめに言ってあるのを、使いに出す左近将監《さこんのじょう》である人に渡して、あの老女に逢《あ》って届けるようにと薫は命じた。宿直の侍が寒そうな姿であちこちと用に歩きまわったのを哀れに思い出して、大きな重詰めの料理などを幾つも作らせて贈るのであった。そのまた宮のおこもりになった寺のほうへも薫は贈り物を差し上げた。山ごもりの僧たちも寒さに向かう時節であるから心細かろうと思いやって、宮からその人々へ布施としてお出しになるようにと絹とか、綿とかも多く贈った。
お籠《こも》りを済ませて寺からお帰りになろうとされる日であったから、ごいっしょにこもった法師たちへ、綿、絹、袈裟《けさ》、衣服などをだれにも一つずつは分かたれるようにして、全体へ宮からお下賜になった。
宿直《とのい》の侍は薫の脱いで行った艶《えん》な狩衣《かりぎぬ》、高級品の白綾《しらあや》の衣服などの、なよなよとして美しい香のするのを着たが、自身だけは作り変えることができないのであるから似合わしくない香が放散するのを、だれからも怪しまれるので迷惑をしていた。着物のために不行儀もできず、人の驚異とする高いにおいをなくしたいと思ったが、すすぐことのできないのに苦しんでいるのも滑稽《こっけい》であった。
薫は姫君の返事の感じよく若々しく書かれたのを見てうれしく思った。
宇治では寺からお帰りになった宮へ、女房たちが薫から手紙の送られたことを申し上げてそれをお目にかけた。
「これは求婚者扱いに冷淡になどする性質の相手ではないよ。そんなふうを見せてはかえってこちらの恥になるよ。普通の若者とは違ったすぐれた人格者だから、自分がいなくなったらと、こんなことをただ一言でも言っておけば遺族のために必ず尽くしてくれる心だと私は見ている」
などと宮はお言いになった。
宮から山寺の客に過ぎた見舞いの品々の贈られた好意を感謝するというお手紙をいただいたので、また宇治へ御訪問をしようと思った薫は、匂宮《におうみや》がああしたような、人に忘られた所にいる佳人を発見するのはおもしろいことであろう、予期以上に接近して心の惹《ひ》かれる恋がしてみたいと、そんな空想をしておいでになることを思い、宇治の女王《にょおう》たちの話を、やや誇張も加えてお告げすることによって、宮のお心を煽動してみようと思い、閑暇《ひま》な日の夕方に兵部卿《ひょうぶきょう》の宮をお訪《たず》ねしに行った。例のとおりにいろいろな話をしたあとで、薫は宇治の宮のことを語り出した。霧の夜明けに隙見《すきみ》したことをくわしく説明するのには宮も興味を覚えておいでになった。理想的な姫君だったと、薫はおおげさに技巧を用いて宇治の女王の美を語り続けるのであった。
「その女王のお返事を、なぜ私に見せてくれなかったのですか。私だったら親友には見せるがね」
と宮はお恨みになった。
「そうですね。あなたはたくさんのお手もとへまいる手紙の片端すらお見せになりません。あちらの女王がたのことは私のような欠陥のある人間などの対象にしておくべきではありませんから、ぜひあなたのお目にかけたい方々だと思っているのですが、どんなふうにすれば御接近ができるでしょう。身分のない者は恋愛がしたければ自由に恋愛もできるのですから、皆それ相当におもしろい恋愛生活はしているようですがね。男の興味を惹《ひ》くような女が物思いをしながら、世間の目から隠れて住んでいるようなことも郊外とか田舎《いなか》とかにはあるのですね。その話の女性たちも人間離れのした信心くさい、堅い感じのする人たちであろうと、私は長く軽蔑《けいべつ》して考えていまして、少しも興味が持てなかったものです。ほのかな月の光で見た目が誤っておりませんでしたら、確かに欠点のない美人です。様子といい、身のとりなしといい、それだけの人は美の極致としてよいことになるかと思います」
と薫は言うのである。しまいには宮は真心から、普通の人などに心の惹《ひ》かれることのない人がこれほど熱心にたたえるのはすぐれた美貌《びぼう》の主に違いないとお信じになるようになり、非常な興味を宇治の女王たちにお持ちになることになった。
「今後もよくさぐって来て私に知らせてください」
宮はこうお言いになって、御自身の自由の欠けた尊貴さをいとわしくお思いになるふうまでもお見せになるのを、薫はおかしく思った。
「しかし、そうした危険なことはしないほうがいいですね。この世へ執着を作るべきでないという信念を持っております私が、そうした中へはいって行って、自分ながら抑制できませんようなことになっては、すべての理想がこわれてしまうでしょうから」
「たいそうだね、例のとおりの坊様くさいことを言っている君のその態度がいつまで続くか見たいものだ」
宮はお笑いになった。
薫の心は宇治の宮で老女がほのめかした話からまた古い疑問が擡頭《たいとう》していて、人生が悲しく見えてならないこのごろであったから、美しい感じを受けたことにも、ほかから耳にはいってくるすぐれた女性の噂《うわさ》などにも自身は興味をそう持てないのであった。
十月になって五、六日ごろに薫《かおる》は宇治へ出かけた。
「季節ですから網代《あじろ》の漁をさせてごらんになるとおもしろうございます」
と進言する従者もあったが、
「そんなことはいやだ。こちらも氷魚《ひお》とか蜉蝣《ひおむし》とかに変わらないはかない人間だからね」
としりぞけて、多数の人はつれずに身軽に網代車に乗り、作らせてあった平絹の直衣《のうし》指貫《さしぬき》をわざわざ身につけて行った。宮は非常にお喜びになり、この土地特有な料理などを作らせておもてなしになった。日が暮れてからは灯《ひ》を近くへお置きになり、薫といっしょに研究しておいでになった経文の解釈などについて阿闍梨《あじゃり》をも寺からお迎えになって意見をお言わせになったりもした。主客ともに睡《ねむ》ることなしに夜通し宗教を談じているのであるが、荒く吹く河風《かわかぜ》、木の葉の散る音、水の響きなどは、身にしむという程度にはとどまらずに恐怖をさえも与える心細い山荘であった。もう明け方に近いと思われる時刻になって、薫は前の月の霧の夜明けが思い出されるから、話を音楽に移して言った。
「先日霧の濃く降っておりました明け方に、珍しい楽音を、ただ一声と申すほど伺いまして、それきりおやめになって聞かせていただけませんでしたことが残念に思われてなりません」
「色も香も思わない人に私がなってからは音楽のことなどにもうとくなるばかりで皆忘れていますよ」
宮はこうお言いになりながらも、侍に命じて琴をお取り寄せになった。
「こんなことをするのが不似合いになりましたよ。導いてくださるものがあると、それにひかれて忘れたものも思い出すでしょうから」
と言って、琵琶をも薫のためにお出させになった。薫はちょっと手に取って、調べてみたが、
「ほのかに承った時のこれが楽器とは思われません。特別な琵琶であるように思いましたのは、やはり弾き手がお違いになるからでございました」
と言って、熱心に弾こうとはしなかった。
「とんでもない誤解ですよ。あなたの耳にとまるような芸がどこからここへ伝わってくるものですか、誤解ですよ」
宮はこうお言いになりながら琴をお弾きになるのであったが、それは身にしむ音で、すごい感じがした。庭の松風の伴奏がしからしめるのかもしれない。忘れたというふうにあそばしながら一つの曲の一節だけを弾いて宮はおやめになった。
「私の家では時々鳴ることのある十三絃はちょっとおもしろい手筋のように思われることもありますが、
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