はそばへ呼んで、
「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく物蔭《ものかげ》に隠れてお聞きしていたいと思うが、そんな場所はあるだろうか。ずうずうしくこのままお座敷のそばへ行っては皆やめておしまいになるだろうから」
と言う薫の美しい風采《ふうさい》はこうした男をさえ感動させた。
「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方で弾《ひ》いておいでになるのでございますが、下人《げにん》でも京のほうからまいった者のございます時は少しの音もおさせになりません。宮様は姫君がたのおいでになることをお隠しになる思召《おぼしめ》しでそうさせておいでになるらしゅうございます」
丁寧な恰好《かっこう》でこう言うと、薫は笑って、
「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」
と言ってから、
「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」
親しげに頼むと、
「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」
と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に透垣《すいがき》がしてあることを言って、そこの垣へ寄って見ることを教えた。薫の供に来た人たちは西の廊《わたどの》の一室へ皆通してこの侍が接待をするのだった。
月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、簾《すだれ》を短く巻き上げて人々はいた。薄着で寒そうな姿をした童女が一人と、それと同じような恰好《かっこう》をした女房とが見える。座敷の中の一人は柱を少し楯《たて》のようにしてすわっているが、琵琶を前へ置き、撥《ばち》を手でもてあそんでいた。この人は雲間から出てにわかに明るい月の光のさし込んで来た時に、
「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」
と言って空をのぞいた顔は、非常に可憐《かれん》で美しいものらしかった。横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、
「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」
と言って笑った。この人のほうに貴女《きじょ》らしい美は多いようであった。
「でも、これだって月には縁があるのですもの」
こんな冗談《じょうだん》を言い合っている二人の姫君は、薫がほかで想像していたのとは違って非常に感じのよい柔らかみの多い麗人であった。女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。
若い人は動揺せずにあられようはずもない。霧が深いために女王たちの顔を細かに見ることができないのを、もう一度また雲間を破って月が出てくれればいいと薫の願っているうちに、座敷の奥のほうから来客のあることを報じた者があったのか、御簾《みす》をおろして、縁側に出ていた人たちも中へはいってしまった。あわてたふうなどは見せずに、静かに奥へ皆が引っこんだ気配《けはい》には聞こえてこようはずの衣擦《きぬず》れの音も、新しい絹の気《け》がないのか添わないで寂しいが優雅で薫の心に深い印象を残した。
薫は隙見《すきみ》した場所を静かにはなれて、京へ車を呼ばせる使いを立てたりした。宮家の先刻の侍に、
「宮様のお留守にあやにく伺ったのですが、あなたの好意で私は屈託を少し忘れることもできましたよ。私の伺ったことをお奥へ申し上げてください。山路《やまみち》の夜霧に濡《ぬ》れながら伺った奇特さを認めていただくつもりです」
と薫が言うと、侍はすぐに奥へ行った。薫が隙見をしたことなどは知らずに、弾《ひ》いて遊んでいた琵琶や琴の音をあるいは聞かれたかもしれぬということで姫君たちは恥ずかしく思った。よい香の混じった風の吹き通ったことも確かな事実であったが、思いがけぬ時刻であったために、薫中将の来訪とは気のつかなかったのは、何たる神経の鈍いことであったろうと二女王は羞恥《しゅうち》に堪えられなく思うのであった。取り次ぎ役の侍の気のきかぬことがもどかしくなって、薫は無遠慮にあたるかもしれぬが、山荘住まいの現在の女王がたはとがめもされまいと思い、まだ霧の深い時間であったから、さっきのぞいたほうの座敷の縁へ歩いて行き、御簾《みす》の前へすわったのであった。田舎《いなか》風の染《し》んだ若い女房などは客と応答する言葉もわからず、敷き物を出すことすら不馴《ふな》れであった。
「このお座敷の御簾の前にしか座が頂戴《ちょうだい》できないのでしょうか。あさはかな心だけでは決して訪《たず》ねてまいれるものでないと、何里の夜路《よみち》をまいって自身でも認めうるのですから、御待遇を改めていただきたいものですね。たびたびこうしてこちらへ上がっております誠意だけはわかっていただいているものと頼もしくは思っております」
まじめに薫はこう言った。若い女房にはこの応対にあたりうる者もなく、皆きまり悪く上気している者ばかりであったから、部屋《へや》へ下がって寝ているある一人を、起こしにやっている間の不体裁が苦しくて、大姫君は、
「何もわからぬ者ばかりがいるのですから、わかった顔をいたしましてお返辞を申し上げることなどはできないのでございます」
と、品のよい、消えるような声で言った。
「人生の憂《う》さがわかりながら私の知らず顔をしていますのも、世の中のならわしに従っているだけなのです。宮様はすでに私の気持ちをお知りになっておられますのに、あなた様だけが俗世界の一人としか私をお認めくださらないのは残念です。世間を超越された宮様のこの御生活の中においでになりますあなた様がたのお心の境地は澄みきったものでしょうから、こうした男の志の深さ浅さも御明察くだすったらうれしいことだろうと私は思います。世間並みの一時的な感情で御交際を求める男と同じように私を御覧になるのではありませんか。私がどんな誘惑にも打ち勝って来ている男であることは、すでに今までにお耳へはいっていることかとも思われます。独身生活を続けております私が求める友情をお許しくだすって、私もまた寂しいあなた様のお心を慰める友になりえて親密なおつきあいができましたらどんなにうれしいかと思われます」
などと薫の多く言うのに対して、大姫君は返辞がしにくくなって困っているところへ、起こしにやった老女が来たために、応答をそれに譲った。その女は出すぎた物言いをするのであった。
「まあもったいない、失礼なお席でございますこと。なぜ御簾《みす》の中へお席を設けませんでしたでしょう。若い人たちというものは人様の見分けができませんでねえ」
などと老人らしい声で言っていることにも女王たちはきまり悪さを覚えていた。
「この世においでになる人の数にもおあたりになりませんようなお暮らしをあそばして、当然おいでにならなければならない方でさえも段々遠々しくばかりなっておしまいになりますのに、あなた様の御好意のかたじけなさは、私ども風情《ふぜい》のつまらぬ者さえも驚きの目をみはるばかりでございます。でございますから、お若い女王様がたも常に感激はしておいでになりながらも、そのとおりにお話しあそばすことはおできにならないのでございましょう」
控えめにせず物なれたふうに言い続けることに反感は起こりながらも、この人の田舎《いなか》風でなく上流の女房生活をしたらしい品のよい声《こわ》づかいに薫は感心して、
「取りつきようもない皆さんばかりでしたのに、あなたが出て来てくださいまして、私の誠心誠意をくんでいてくださる方を得ましたことは、私の大きい幸福です」
こう御簾に身を寄せて言っている薫を、几帳《きちょう》の間からのぞいて見ると、曙《あけぼの》の光でようやく物の色がわかる時間であったから、簡単な服装をわざわざして来たらしい狩衣《かりぎぬ》姿の、夜露に濡《ぬ》れたのもわかったし、またこの世界のものでないような芳香もそこには漂っていることにも気づかれた。この老女はどうしたのか泣きだした。
「あまり出すぎたことをしてお気持ちを悪くしましてはと存じまして、私は自分をおさえておりましたが、悲しい昔の話をどうかして機会を作りまして、少しでもお話しさせていただき、あなた様の御承知あそばさなかったことを、お知らせもしたいということを私は長い間仏様の念誦《ねんず》をいたしますにも混ぜて願っておりましたその効験で、こうしたおりが得られたのでしょうが、お話よりも先に涙におぼれてしまいまして、申し上げることができません」
身体《からだ》を慄《ふる》わせて言う老女の様子に真剣味が見えて、老人はだれもよく泣くものであると知っている薫《かおる》であったが、こんなにまで悲しがるのが不思議に思われて、
「この御山荘へ伺うことになりましてからずいぶん年月はたちますが、こちらのほうにも一人もおなじみがなくて寂しくばかり思われていたのです。昔のことを知っておいでになるというあなたにお逢《あ》いすることができて、私はにわかに心強くなったのですから、この機会に何でもお話しください」
と言った。
「ほんとうにこんなよいおりはございません。またあるといたしましても、私は老人でございますから、それまでにどうなるかもしれたものではありませんので、ただこうした老女がいると申すことを覚えておいていただくためにお話しいたします。三条の宮にお仕えしておりました小侍従が亡《な》くなりましたことはほのかに聞いて承知しておりました。昔親しくいたしました同じ年ごろの人がたいてい亡くなりましたあとで、この五、六年こちらの宮家へ私は御奉公いたしております。ご存じではございますまい、ただいま藤《とう》大納言と申し上げます方のお兄様で、衛門督《えもんのかみ》でお亡《かく》れになりました方のことを何かの話の中ででもお聞きになったことがございますでしょうか。私どもにとりましては、お亡れになりましたのがまだ昨日《きのう》のようにばかり思われまして、その時の悲しみが忘れられないのでございますが、数えてみますと、あなた様がこんな大人《おとな》にまでなっておいでになるだけの年月がたっているのでございますから、夢のようですよ。私はつまらない女でございましたが、人に知らせてならぬことで、しかもお心でお思いになりますことを私には時々お話ししてくだすったのでございました。御病気がお悪くて、もう頼みのない時になりまして、私をお呼びになって、少し御遺言をあそばしたことがあるのでございます。それはあなた様に御関係のあるお話なのでございましたから、これだけお話を申し上げましたあとを、まだお聞きになりたく思召すのでございましたら、また別な時間をお作りくださいまし。若い女房たちは私が出てまいって、あまりに話し込んでおりますことで、出すぎた真似《まね》をするように、反感を持ちまして何か言っておりますのももっともなことでございますから」
さすがにこれだけにとめて老女はあとを言おうとしなかった。怪しい夢のような話である。巫女《みこ》などが問わず語りをするようなものであると、薫は信を置きがたく思いながらも、始終心の隅《すみ》から消すことのできない疑いに関したことであったから、なお話の核心に触れたくは思ったが、今もこの人が言ったように、女房たちが見ている所であって、老女と二人向き合って昔話に夜を明してしまうことも優雅なことではないと気がついて、
「私には何の心あたりもないことですが、昔のお話であると思うと身にしみます。ですからぜひ今の話のあとをそのうちお聞かせください。霧が晴れて現わになっては恥ずかしい姿になっていて、私の心よりも劣った形を姫君がたのお目にかけることになるのは苦痛ですから失礼
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