男であったから、女房たちはいろいろな話をしかけるのであるが、静かに言葉少なな応対だけより侍従がしないのをくやしがって、宰相の君という高級の女房が歌を詠《よ》みかけた。
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折りて見ばいとど匂《にほ》ひもまさるやと少し色めけ梅の初花
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速く歌のできたことを薫は感心しながら、
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「よそにては※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]木《もぎき》なりとや定むらん下に匂へる梅の初花
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疑わしくお思いになるなら袖《そで》を触れてごらんなさい」
などと言っていると、また女房は、
「真実《ほんとう》は色よりも香」
口々にこんなことを言って、引き揺らんばかりに騒いでいるのを、奥のほうからいざって出た玉鬘夫人が見て、
「困った人、あなたたちは。きまじめな人をつかまえて恥ずかしい気もしないのかね」
とそっと言っていた。きまじめな人にしてしまわれた、あわれむべき名だと源侍従は思った。この家の侍従はまだ殿上の勤めもしていないので、参賀する所も少なくて早く家に帰って来てここへ出て来た。浅香《せんこう》の木の折敷《おしき》二つに菓子と杯を載せて御簾《みす》から出された。
「右大臣はお年がゆけばゆくほど院によくお似ましになるが、侍従はお似になったところはお顔にないが、様子にしめやかな艶《えん》なところがあって、院のお若盛りがそうでおありになったであろうと想像されます」
などと薫の帰ったあとで尚侍は言って、昔をなつかしくばかり追想していた。あたりに残ったかんばしい香までも女房たちはほめ合っていた。
源侍従はきまじめ男と言われたことを残念がって、二十日過ぎの梅の盛りになったころ、恋愛を解しない、一味の欠けた人のように言われる不名誉を清算させようと思って、藤《とう》侍従を訪問に行った。中門をはいって行くと、そこには自身と同じ直衣《のうし》姿の人が立っていた。隠れようとその人がするのを引きとめて見ると蔵人《くろうど》少将であった。寝殿の西座敷のほうで琵琶《びわ》と十三|絃《げん》の音がするために、夢中になって立ち聞きをしていたらしい。苦しそうだ、人が至当と認めぬ望みを持つことは仏の道から言っても罪作りなことになるであろうと薫は思った。琴の音がやんだので、
「さあ案内をしてください。私にはよく勝手がわかっていないから」
と言って、蔵人少将とつれだって西の渡殿《わたどの》の前の紅梅の木のあたりを歩きながら、催馬楽《さいばら》の「梅が枝」を歌って行く時に、薫の侍従から放散する香は梅の花の香以上にさっと内へにおってはいったために、家の人は妻戸を押しあけて和琴を歌に合わせて弾《ひ》きだした。呂《りょ》の声の歌に対しては女の琴では合わせうるものでないのに、自信のある弾き手だと思った薫は、少将といっしょにもう一度「梅が枝」を繰り返した。琵琶も非常にはなやかな音だった。まったく芸術的な家であるとおもしろくなった薫は、元日とは変わった打ち解けたふうになって、冗談《じょうだん》なども今夜は言った。
御簾《みす》の中から和琴を差し出されたが、二人の公達《きんだち》は譲り合って手を触れないでいると、夫人は末の子の侍従を使いにして、
「あなたのは昔の太政大臣の爪音《つまおと》によく以ているということですから、ぜひお聞きしたいと思っているのです。今夜は鶯《うぐいす》に誘われたことにしてお弾きくだすってもいいでしょう」
と言わせた。恥ずかしがって引っ込んでしまうほどのことでもないと思って、たいして熱心にもならず薫の弾きだした琴の音は、音波の遠く広がってゆくはなやかな気のされるものだった。接近することの少なかった親ではあるが、亡《な》くなったと思うと心細くてならぬ尚侍《ないしのかみ》が、和琴に追慕の心を誘われて身にしむ思いをしていた。
「この人は不思議なほど亡くなった大納言によく似ておいでになって、琴の音などはそのままのような気がされました」
と言って、尚侍の泣くのも年のいったせいかもしれない。少将もよい声で「さき草」を歌った。批評家などがいないために、皆興に乗じていろいろな曲を次々に弾き、歌も多く歌われた。この家の侍従は父のほうに似たのか音楽などは不得意で、友人に杯をすすめる役ばかりしているのを、友から、
「君も勧杯の辞にだけでも何かをするものだよ」
と言われて、「竹河《たけかわ》」をいっしょに歌ったが、まだ少年らしい声ではあるがおもしろく聞こえた。御簾《みす》の中からもまた杯が出された。
「あまり酔っては、平生心に抑制していることまでも言ってしまうということですよ。その時はどうなさいますか」
などと言って、薫の侍従は杯を容易に受けない。小袿《こうちぎ》を下に重ねた細長のなつかしい薫香《たきもの》のにおいの染《し》んだのを、この場のにわかの纏頭《てんとう》に尚侍は出したのであるが、
「どうしたからいただくのだかわからない」
と言って、薫はこの家の藤侍従の肩へそれを載せかけて帰ろうとした。引きとめて渡そうとしたのを、
「ちょっとおじゃまするつもりでいておそくなりましたよ」
とだけ言って逃げて行った。
蔵人少将はこの源侍従が意味ありげに訪問した今夜のようなことが続けば、だれも皆好意をその人にばかり持つようになるであろう、自分はいよいよみじめなものになると悲観していて、御簾《みす》の中の人へ恨めしがるようなこともあとに残って言っていた。
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人は皆花に心を移すらん一人ぞ惑ふ春の夜の闇《やみ》
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こう言って、歎息《たんそく》しながら帰ろうとしている少将に、御簾の中の人が、
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折からや哀れも知らん梅の花ただかばかりに移りしもせじ
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と返歌をした。
翌朝になって源侍従から藤侍従の所へ、
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昨夜は失礼をして帰りましたが皆さんのお気持ちを悪くしなかったかと心配しています。
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と、婦人たちにも見せてほしいらしく仮名がちに書いて、端に、
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竹河《たけかは》のはしうちいでし一節《ひとふし》に深き心の底は知りきや
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という歌もある手紙を送って来た。すぐに寝殿へこの手紙を持って行かれて、侍従の母夫人や兄弟たちもいっしょに見た。
「字も上手だね。まあどうして今からこんなに何もかもととのった人なのだろう。小さいうちに院とお別れになって、お母様の宮様が甘やかすばかりにしてお育てになった方だけれど、光った将来が今から見える人になっていらっしゃる」
などと尚侍は言って、自分の息子たちの字の拙《つたな》さをたしなめたりした。藤侍従の返事は実際幼稚な字で書かれた。
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昨夜はあまり早くお帰りになったことで皆何とか言ってました。
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竹河によを更《ふ》かさじと急ぎしもいかなる節《ふし》を思ひおかまし
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この時以来薫は藤侍従の部屋《へや》へよく来ることになって、姫君への憧憬《あこがれ》を常に伝えさせるのであった。少将が想像したとおりに、家の者は皆この人をひいきにすることになった。まだ少年らしい弟の侍従も、この人を姉の婿にして、同じ家の中で睦《むつ》み合いたいと願っていた。
三月になって、咲く桜、散る桜が混じって春の気分の高潮に達したころ、閑散な家では退屈さに婦人たちさえ端近く出て、庭の景色《けしき》ばかりがながめまわされるのであった。玉鬘《たまかずら》夫人の姫君たちはちょうど十八、九くらいであって、容貌《ようぼう》にも性質にもとりどりな美しさがあった。姫君のほうは鮮明に気高《けだか》い美貌《びぼう》で、はなやかな感じのする人である。普通の人の妻にはふさわしくないと母君が高く評価しているのももっともに思われるのである。桜の色の細長に、山吹《やまぶき》などという時節に合った色を幾つか下にして重なった裾《すそ》に至るまで、どこからも愛嬌《あいきょう》がこぼれ落ちるように見えた。身のとりなしにも貴女《きじょ》らしい品のよさが添っている。もう一人の姫君はまた薄紅梅の上着にうつりのよいたくさんな黒々とした髪を持っていた。柳の糸のように掛かっているのである。背が高くて、艶《えん》に澄み切った清楚《せいそ》な感じのする聡明《そうめい》らしい顔ではあるが、はなやかな美は全然姉君一人のもののように女房たちも認めていた。碁を打つために姉妹《きょうだい》は今向き合っていた。髪の質のよさ、鬢《びん》の毛の顔への掛かりぐあいなど両姫君とも共通してみごとなものであった。侍従が審査役になって、姫君たちのそばについているのを兄たちがのぞいて、
「侍従はすばらしくなったね。碁の審査役にしていただけるのだからね」
と、大人らしくからかいながら、几帳《きちょう》のすぐそばにすわってしまうと、女房たちは急に居ずまいを直したりした。上の兄の中将が、
「公務で忙しくしているうちに、姫君の愛顧を侍従に独占されてしまったのはつまらないね」
と言うと、次の兄の右中弁が、
「弁官はまた特別に御用が多いから、忠誠ぶりを見ていただけないからといっても、少しは斟酌《しんしゃく》していただかないでは」
と言う。兄たちの言う冗談《じょうだん》に困って碁を打ちさして恥じらっている姫君たちは美しかった。
「御所の中を歩いていても、お父様がおいでになったらと思うことが多い」
などと言って、中将は涙ぐんで妹たちを見ていた。もう二十七、八であったから風采《ふうさい》もりっぱになっていて、妹たちを父の望んでいたようにはなやかな後宮の人として見たく思っているのである。庭の花の木の中でもことに美しい桜の枝を折らせて、姫君たちが、
「この花が一番いいのね」
などと言って楽しんでいるのを見て、中将が、
「あなたがたが子供の時に、この桜の木を私のだ私のだと取り合いをした時に、お父様は姉さんのものだとおきめになって、お母様は小さい人のだとおきめになったから、泣く騒ぎまではしなかったけれど、双方とも不満足な顔をしたことを覚えていますか」
こんなことを言いだして、また、
「この桜が老い木になったことでも、過ぎ去った歳月が数えられて、力になっていただけたどの方にもどの方にも死に別れてしまった不幸な自分のことが思われる」
とも言って、泣きもし、笑いもしながら平生ほど時間のたつのを気にせずに中将は母の家にいた。他家の婿になっていて、こちらへ来て静かに暮らす余裕のある日などを持たないのであるが、今日は花に心が惹《ひ》かれて落ち着いているのである。尚侍はまだこうした人々を子にして持っているほどの年になっているとは見えぬほど今日も若々しくて、盛りの美貌《びぼう》とさえ思われた。冷泉《れいぜい》院の帝《みかど》は姫君を御懇望になっているが真実はやはり昔の尚侍を恋しく思われになるのであって、何かによって交渉の起こる機会がないかとお考えになった末、姫君のことを熱心にお申し入れになったのである。院参の問題はこの子息たちが反対した。
「どうしても見ばえのせぬことをするように思われますよ。現在の勢力のある所へ人が寄って行くのも、自然なことなのですからね。院はごりっぱな御|風采《ふうさい》で、あの方の後宮に侍することができれば女として幸福至極だろうとは思いますが、盛りの過ぎた方だと今の御位置からは思われますからね。音楽だって、花だって、鳥だってその時その時に適したものでなければ魅力はありません。東宮はどうですか」
などと中将が言う。
「それはどうかね。初めからりっぱな方が上がっておいでになって、御|寵愛《ちょうあい》をもっぱらにしておいでになるのだから、それだけでも資格のない人があとではいって行っては、苦痛なことばかり多いだろうと思うからね。お父様がほんとうにいてくだすったら、この人たちの遠い未来まではわからない
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