た。まして院に親しくお仕えしていた人たち、夫人がた、宮がたが院にお別れした悲しみに流す涙というものはどれほどの量であるかしれないのである。それとともに今も紫夫人を追慕する思いはだれにもあって、人からその女王の思い出されていない時というものはないのである。春の花の盛りは短くても印象は深く残るものであるというべきであろう。
二品《にほん》の宮《みや》の若君は院が御寄託あそばされたために、冷泉《れいぜい》院の陛下がことにお愛しになった。院の后の宮も皇子などをお持ちにならずお心細く思召《おぼしめ》したのであったから、この人をお世話あそばして老後の力にしたいと望んでおいでになった。元服の式も院の御所であげられた。十四の歳であった。その二月に侍従になって、秋にはもう右近衛《うこんえ》の中将に昇進した。推薦権をお持ちになる位階の陞叙《しょうじょ》もこの人へお加えになって、なぜそんなにお急ぎになるかと思うようにずんずんと上へお進ませになるのであった。お住居の御殿に近い対をこの人の曹司《ぞうし》におあてになって、装飾などは院御自身の御意匠でおさせになり、若い女房から童女、下仕えの者までもすぐれた者をお選《よ》りととのえになった。人が姫君をかしずく以上の華奢《かしゃ》な生活をおさせになるようでまばゆく見えた。院のおそばの女房の中からも、后の宮の女房の中からも容貌《ようぼう》のすぐれた、感じのよい、品のある女は皆中将の曹司付きにあそばされ、院にいることがどこにいるよりも好きになるようにとお計らいになったのであって、うれしい玩具品《がんぐひん》のように思召すのであった。亡《な》くなった太政大臣の女御《にょご》の腹からただお一方の内親王がお生まれになったのを、院が非常に珍重あそばすのに変わらず中将をお扱いになるのである。それは一つは后の宮をお愛しになることが年月とともに増してゆくことによるものらしくて、それほどまでにはと話を聞いては人が信じないほど中将を院はお愛しになった。
現在の母宮は仏勤めをばかりしておいでになって、月ごとの念仏、年に二度の法華《ほっけ》の八講、またそのほかのおりおりの仏事などを怠らずあそばすだけがお役目のようで、出入りする中将をかえって御自身のほうが子のように頼みにしておいでになったから、お気の毒でおそばにもいたかったし、院からも、宮中からも始終お呼ばれはするし、東宮も御弟の宮がたも親友のように思召していっしょにお遊びになろうとされるしするために、暇がなく苦しい中将は一つの身を幾つかに分けて使うことができぬかとさえ歎息《たんそく》していた。時々耳にはいって、子供心にも腑《ふ》に落ちず思ったことは、今も不可解のままで心に残っているが、尋ねる人もなかった。宮にはそうした不審をいだいているとさえお思われすることのはばかられる問題であったから、ただ自身の心のうちでだけ絶え間なくそのことを考えて、
「どういうことから自分が生まれるようになったのか、何の宿命でこんな煩悶《はんもん》を負って自分は人となったのか、善巧《ぜんぎょう》太子はみずから釈迦《しゃか》の子であることを悟ったというが、そうした知慧《ちえ》がほしい」
と独言《ひとりごと》をする時もあった。
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おぼつかなたれに問はまし如何《いか》にして始めも果ても知らぬわが身ぞ
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返事はだれもしてくれない。自身の健康などもこんなことでそこなってゆくような気がして中将は歎《なげ》かれるのであった。宮がお年の若盛りに尼におなりになったのも、いったいどれほどの信仰がおありになったために、にわかに出家を断行あそばされたのか、自分の生まれてくることが不祥なことであったために、厭世《えんせい》的なお気持ちにもなられたのであろう、人がその秘密を悟らずにいるとは思われない、暗闇《くらがり》に置くべき問題であるから自分には人が告げないのであろうと中将は思った。朝暮《あけくれ》仏勤めはしておいでになるようではあるが、確固とした信念がおありになるとは思えない女の悟りだけでは御仏《みほとけ》の救いの手もおぼつかない、五つの戒めも完全に保っておゆきになれるかも疑問なのであるから、自分がその精神だけを補うことにして、後世だけでも御安楽にしてさしあげたく思った。この人はお崩《かく》れになった院も、自分というもののために不快な思いにお悩まされになったかもしれぬと思うと、次の世界ででももう一度お逢《あ》いしたいという望みが起こり、元服して社会へ出ることを厭《いと》わしがったのであるが、意志を通すこともできなくて、出仕する身になった時から、八方のはなやかな勢いがこの人を飾ることになっても、これはうれしいとは思われないで、ただ静かな落ち着いた人になっていた。帝も母宮の御縁故
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